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2019.
11.17
Sun
小諸のちょっと気になる建物をご紹介します。

旧銀座会館2
旧 銀座会館:建築年:昭和初期、所在地:荒町2丁目4 
旧銀座会館1
ミルクホールとして開店し、BARやダンスホールとして賑わったが昭和30年代に閉店したという。
旧銀座会館3
その横にある付属建物 


旧 山崎長兵衛商店(山長)…建築年:大正~昭和初期、 所在地:小諸市荒町2丁目4-3
旧山崎長兵衛商店
寛政10年(1798)創業の文具・玩具・婦人用小間物を扱う問屋で、現在は別店舗で寝具・衣類などを販売。
この店舗は十数年前から使用されていなかったが、この地に移住した石川実氏が買取り『荒町GATE』として再興プロジェクトを開始。
定期的にマルシェを開催している。


旧 桑原病院…建築年:大正~昭和初期、 所在地:荒町2丁目-1
桑原医院


酢久商店(やまきゅう)…所在地:荒町1丁目7−12
酢久商店1
延宝2年(1674)創業し、酢・味噌・醤油を醸造。 代々の当主は小山久左衛門を襲名。
明治-大正時代の当主は小諸と茅ケ崎に製糸所(純水館)を創設し、信越本線の小諸開通に協力している。
また画家・小山敬三の父親でもある。


小山家…建築年:江戸時代、所在地:与良町1丁目2
小山家
江戸時代に庄屋であった屋敷は田の字型(土間・板の間・寝間・座敷)の古民家で、藩主を迎えたという式台(客用玄関)があり、長い歴史の中で改装しながら現在も住まわれている。


小諸病院…建築年:昭和6年 所在地:小諸市荒町2丁目-1-1
小諸病院
東京の慶應病院に勤務していた樋口隆蔵が、サナトリウム建設を志して大正13年に小諸馬場裏で樋口医院を開院。
現在地に建物を新築するにあたり、建材には故郷・奈良の吉野杉や檜を使い、窓には輸入品の紫外線ガラスを採用。
『小諸病院』と改称して開院した。

【2018年10月 訪問】

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2019.
11.04
Mon
小諸 旧北国街道の建物一部をご紹介します。


旧 小諸宿 問屋場 ※内部非公開・修復中
所在地:小諸市市町1丁目2−29, 建築年:江戸中~後期
旧小諸宿問屋場
問屋場(といやば)とは、次の宿場に向けて荷物の積み替えと馬の手配を行う場所で、その当時は右側の広場で荷物の積み替えをした。
左裏に大名の宿泊所となった本陣主屋もあったが、現在は門だけが残る。
元和2年(1616) 市町の上田善左衛門が上問屋に、本町の巴屋・小山六左衛門が下問屋に指定され交代で問屋場となったが、寛保2年(1742)の洪水で本町の本陣(一文字屋)と下問屋が流失。
それ以降はこの市町.上問屋の別棟が本陣になっていたが、明治になると競売に掛けられ移築された。
問屋場は田村家の所有となり、右側広場に洋館(旧小諸義塾)を移築して医院としていた。
旧小諸宿問屋場・看板
看板用の屋根


旧 小諸宿 本陣主屋
所在地:小諸市大手1丁目6-14,  建築年:江戸中~後期
旧小諸本陣
参勤交代の大名や幕府の役人が宿泊した建物。
問屋場の左裏にあった本陣主屋が競売に掛けられ、明治11年に佐久市鳴瀬の桃源院に移築されて本堂/庫裡となっていたが、寄贈されて平成9年に現在地に移築復元された。
旧小諸本陣・内部
台所横の大広間
旧小諸本陣・杉戸
杉戸
旧小諸本陣・欄間
付書院と座敷の欄間(上の釘隠しは上問屋の印?)
【小諸宿・旧本陣】 TEL:0267-24-7788
公開:9~17時(木曜日・冬期11月~3月は休館) 無料


旧 脇本陣(粂屋)…建築年:江戸後期, 所在地:小諸市市町1-2-24
粂屋1
粂屋重右衛門の旅籠で文政4年(1821)脇本陣に指定され、参勤交代の家臣などが宿泊した。
訪問時は再整備基礎改修工事中(2018/9/27~11/30)であったが、2019年7月から宿&茶屋『粂屋:くめや』としてOPENした。
粂屋・看板1
江戸時代の看板用屋根
粂屋・看板
昭和の看板


事務所…建築年:不明, 所在地:市町1丁目1-11
小諸図書教材社
小諸図書教材社と書かれたちょっと気になる建物は、昭和3年の地図に載っている小諸新聞社(印刷所)か?


旧 清水屋(久平商店)…建築年:大正12年(1923), 所在地:本町2丁目2−9
旧清水屋
味噌・醤油醸造元であった商家(笠原家)で、現在は資料館兼公民館として改装されており、訪問時は地元の方々が囲碁将棋をされていた。
旧清水屋2階座敷
2階座敷
小諸城・中仕切門
〈中仕切門の古材が展示されている蔵〉 ※左の写真は展示パネル
小諸城の南丸-北丸の間にあった中仕切門は三層構造の櫓門。
明治時代に払下げとなり、購入した清水屋の笠原久平が昭和3年(1928)その部材を利用して3階建て倉庫に建て替えた。
門の2階床を支えた冠木8m(大桁)は2本に切断され、倉庫の1階床梁に転用されたが、門の柱6本は行方不明となっている。
【北国街道ほんまち町屋館】 TEL:0267-25-2770
公開:9時〜17時(4〜10⽉)、10時〜16時(11〜3⽉)、無料
休館:⽉曜(祝日の場合はその翌日)、年末年始


商家…建築年:不明、 所在地:本町2丁目2−15
田中燈灯店
江戸末期以降と思われるが屋号は不明。 現在は田中燈灯店となっている。


商家…建築年:不明、 所在地:本町3丁目1-3
本町3-1-3
こちらも古そう


旧 小諸銀行
建築年:明治中期、 所在地:長野県小諸市本町3丁目-2-21  
旧小諸銀行
明治14年に小諸銀行が設立された当初は隣の民家で開業し、数年後にこの建物が竣工したと云われている。
専務は柳澤禎三、取締役に酢久商店の小山久左衛門(正友)がいた。
旧小諸銀行2
現在は『萬屋骨董店』(TEL:0267-22-0268)となっており、許可を取り撮影。
旧小諸銀行3
2階座敷
旧小諸銀行8
2階次の間
旧小諸銀行4
2階の洋間は頭取室として使われた
旧小諸銀行5
見事な漆喰(石膏?)彫刻
旧小諸銀行7
上:輸入物と伝わる壁紙       下:釘隠しと欄間は同じ意匠
旧小諸銀行・階段
階段は2ヶ所あるが一部改造されている

【参考文献】
「小諸市誌 歴史編」小諸市誌編纂委員会 1984・1991
「商工興信録 本州中部地方」商工興信 1913
「大日本職業別明細図之内-信用案内」1928 ⇒上田市立博物館「上田古地図・絵図デジタルアーカイブ

【2018年10月 訪問】


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2019.
10.01
Tue
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉2112
見 学:企画展開催中に1階を公開 9:00 ~17:00 (入館16:30まで)
TEL:0267-42-6334(歴史民俗資料館)
 
雨宮邸新座敷
 鉄道王であり「天下の雨敬」と呼ばれた雨宮敬次郎の軽井沢別邸です。
軽井沢を開拓するため事務所兼別邸を建設し、後にこの新座敷が建てられました。
妻・信子による内助の功でこの地を開拓し、裏山にはその妻の銅像跡と夫妻の墓がひっそりと残っています。
雨宮邸新座敷・1F2
室内一部は改装済みで稲垣黄鶴の企画展開催中であった(撮影許可済) ※2019年度の企画展⇒【稲垣黄鶴 書の世界
雨宮邸新座敷・1F1
1階座敷
雨宮邸新座敷・1F3
左:1階座敷の張付け壁の跡(和紙を押さえるため隅に押縁が付く)
右:付書院の欄間
雨宮邸新座敷・1F天井2
照明上の天井通気口(上:1階座敷、下:次の間)
雨宮邸新座敷・1F天井
床の間の格天井(上:座敷と床の間、下:脇床)
雨宮邸新座敷・家具1
火鉢と軽井沢彫りの座卓
雨宮邸新座敷・家具2
座卓の裏を見ると軽井沢彫の家具と同様にL型金物で留めてある
雨宮邸新座敷・1F天井3
廊下も質の良い天井板を使用(広縁の曲がり角の天井)
雨宮邸新座敷・階段1
和洋折衷の階段
雨宮邸新座敷・階段2
2階は通常非公開だが今回は特別に許可をいただき拝見した
雨宮邸新座敷・2F1
2階の座敷(通常非公開)
雨宮邸新座敷・2F4
上:脇床の地板、 中:欄間、 下:付書院の欄間 (通常非公開)
雨宮邸新座敷・2F2
襖に黄鶴の書あり(通常非公開) 雨宮敬次郎夫妻の死後に書かれた物のようだ
雨宮邸新座敷・2F3
書家・稲垣黄鶴(本名:稲垣はま)
 明治36年に追分宿の三浦屋の娘として誕生。 1歳の時に上田城主の右筆を務めた湯浅家の養女となり、小学校4年生で大正天皇の前で揮毫。
女学校時代に岩田鶴皐に師事して雅号・黄鶴を受ける。
東京女子師範学校・北京日本高等女学校で教職に就き、戦後に帰国すると『離燕の情』を書道展に出品し、引揚げ孤児義援金のため揮毫を続ける。
貞明皇太后からの御言葉と和歌を受けて『離燕の情』を献納。
昭和40年から信濃追分で夏を過ごし、平成18年に103歳で他界。(展示解説より)
追分公民館
黄鶴の書を基に作られた追分公民館の看板 ⇒【追分宿】 (追分宿郷土館の玄関看板も手掛けた)
雨宮邸新座敷・2F
2階のこの部屋は寝室か?(通常非公開)
雨宮邸新座敷3
隣りにある蔵座敷(通常非公開) 
職員の話によると戦時中の軽井沢は重要品の疎開先となり、雨宮家別邸でも皇室関連の書類を保管していたという。
雨宮邸新座敷2

 東京の飯田町3丁目にあった本邸では、430坪ある敷地に登山できる人造富士を造り、明治39年(1906.10.22)盛大な還暦祝いを行っています。
その当時の新聞によると、建造中の足場は丸太15000本,高さ55尺あり、五合目以上の模型はこけら葺に水色・浅葱色・白の木綿をかけて、神田方面を甲州口,麹町方面を須走口とし、内部は和洋折衷。
2千余名が招待された園遊会は13時から始まり、狂言や太神楽などが行われ、松尾臣善の主唱で皆が万歳したという事です。
 その本邸の主屋は17室で殆どの部屋が10帖以上あり、2間続きの応接間が一番広く、その隣室の床の間には2尺程の銀の馬が飾られ、さらに進むと3×4尺の欅机が置かれた主人の居間10帖があり、その後ろは数年前に他界した信子の居間10帖。
亡き妻と婿養子・亘の12帖間を除いて邸内の飾り物は銀の馬だけで、そこで雨敬と娘夫妻に孫4名+雇人16名ほど暮らしていたようです。
他に洋館15帖2室と茶室6帖がありましたが「あまり美しからず西洋間に擬したるそれも椅子は粗末にて畳も絨毯も甚だ汚き方である」と書かれています。

 雨宮敬次郎は弘化3年(1846)甲州.牛奥村に生まれ、江戸や京浜への行商から始まり、横浜の金子屋で相場を覚えて以来、洋銀や生糸相場で成功と失敗を繰り返します。
生糸種紙問屋・石油取引・製粉工場などの他、晩年は鉄道経営に乗り出して甲武鉄道・川越鉄道・山梨鉄道・東京市街鉄道・京浜電気鉄道、江ノ島電気鉄道・大日本軌道と多くの鉄道を開通させました。
また東京.路面電車の三銭均一制を実施し、桂川水力発電所(山梨)・北海道炭礦汽船・雨宮鉄工所などの経営にも携わりました。
 私生活での雨敬は、信州屋の未亡人・信子と結婚し、一人娘てる子が誕生。 明治15年頃から肺病を患いながらも大元気でした。
信子は良妻として知られ、貧乏な時代は下宿屋と内職で家計を支え、家が焼けても火事見舞いの食糧を喜び、雨敬が遅く帰っても愛想良く迎えたといいます。
 軽井沢の開墾では葡萄栽培・牧畜・養蚕も上手くいかず、馬付きの家を建てても開拓者は少し金が出来ると出て行き、金の無い者は馬を売って夜逃げという状態になり、信子が出向いて病人や老人を慰めると人々は次第に落ち着いたとの事。
信子はその後も毎年 数十日滞在し、水害の時は婿らを引き連れて水の中を歩み、被害者を慰問したと云われています。
 その信子は明治36年に亡くなり、遺言であった石碑の代わりに雨敬は軽井沢に妻の銅像を建てますが、戦時中に金属接収されてしまい現在は台座だけとなっています。
 その後、肺病がひどくなった雨敬は明治42年から片瀬の別荘で静養に入り、熱海. 桜ヶ丘の別荘へ移動。
明治44年(1911.1.20)家族に見守られながら熱海の別荘で他界しました。

【参考文献】
東京朝日新聞 1906/10/15・10/23,1911/1/22
時事評論25「雨宮敬次郎の平生」1907
東京エコー1「傑物雨敬は如何に生活する?」有楽社 1908
実業の世界8「雨宮敬次郎氏の臨終」1911
良妻物語内助の力「雨敬曰く可愛き奴であった」平間力之助 著 1918

【2018年10月 訪問】

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2019.
09.29
Sun
会期:2019年9月17日(火)〜 30(月) 11:00〜18:30(無休・入場無料)
会場:ストライプハウスギャラリー1階~地階
 (東京都港区六本木5-10-33,TEL:03-3405-8018)

ストライプハウスギャラリー3
 六本木にあるストライプハウスギャラリー。 写真家・塚原琢哉氏が設立した旧(1981~2000)ストライプハウス美術館であり、2019年9月30日(月)まで人形作家の井桁裕子(イゲタ ヒロコ)個展「2004-2019」を開催。
ライフワークとして続けてきた肖像人形の他、2014年から始めた陶人形も展示。(作品に触れる事は不可・一部の作品は撮影不可)
ゲージツ家KUMA(篠原勝之)さんをモデルにした制作途中の作品も発表されています。 ※詳しくはコチラ⇒【井桁裕子HP
ストライプハウスギャラリー2
Bフロア(地階)の様子
ストライプハウスギャラリー4
階段とBフロア(地階)床はコルク貼り、1階は石の床
コルクは柔らかく水に強いため、お年寄り・子供・ペットのいる家庭に適した床材
短所としては原料が高価で施工が難しく、数年毎にワックスを掛け直す必要がある
井桁裕子5
加速する私たち(舞踏家・高橋理通子の肖像)2012 桐塑・石塑・油彩
井桁裕子4
枡片山の鬼(舞踏家・吉本大輔の肖像)2017 桐塑・石塑・獣毛・油彩
井桁裕子6
あまつみつかいの声もかくやと 2005 石塑
井桁裕子1
ウラノス・ロータス・ウラニウム(ゲージツ家・篠原勝之の肖像)
井桁裕子2
完成した作品には蓮の花が咲くという
井桁裕子7
Doll of battle ruins 2005 桐塑 
井桁裕子8
核の海 2018 陶器
昭和29年(1954.3.1)太平洋ビキニ環礁の水爆実験で被曝した漁船.第五福竜丸とマグロをテーマにした作品
作家ご自身の手により裏印を拝見すると、側面に三日月とマグロが見えた(展示作品に触れる事は不可)
ストライプギャラリー1
ストライプハウスギャラリーは再開発が計画されている六本木5丁目西地区にあり、外資系企業と労働者を呼び込もうと超高層ビルが建設される予定地にあるため、いずれは休館する予定。
地方には人口が減って空き家・空きビルとなっている未来に残すべき建物が沢山あり、出来ればその様な場所でギャラリーを再開してほしいと個人的に願っております。
 ※ストライプハウスギャラリーについてはコチラ⇒【ギャラリーHP

【2019年9月 訪問】


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2019.
09.09
Mon
建築年:明治21年(1888)竣工、改装・修復は何度かあり
設 計:山添喜三郎、  棟 梁:三島秀之助・佐藤朝吉
所在地:宮城県登米市登米町寺池桜小路6
アクセス:東日本急行.高速乗合バス『仙台駅』→『とよま明治村』下車スグ
開 館:9:00~16:30(年末年始は休館)
見学料:有料(6施設共通券有り)
TEL:0220-52-2496
 ※詳しくはコチラ⇒【教育資料館
旧登米小学校1
 昭和40年代に小学校が移転してから仮校舎として小中学校や高校が一時使用していた建物で、現在は『教育資料館』として公開。
設計者の山添喜三郎はウィーン万博.日本館の大工を務めた人物で、近くにある登米警察署も設計しています。→【旧 登米警察署
 山添は全ての木材や瓦の検品を行い、多くの不合格品を出した業者が夜逃げしたほど仕事に厳しかったと云われています。
棟札にある2名の棟梁のうち、三島秀之助は気仙沼今泉村出身で、佐藤朝吉は登米生まれ(1852)の地元の大工でした。
川に近い地盤のため基礎工事は地中まで木杭を打ち、割栗石を敷き詰め、石灰・砂利・粘土を突き固めて礎石を乗せています。
その工事のおかげか昭和53年の宮城県沖地震では壁の亀裂や剥離、桟瓦がずれる程度。
昭和末期に行われた保存工事の調査で、束石や狭間石、正面玄関の石階段は多少の沈下が見られたものの、柱の礎石はあまり沈下がなかったとの事。
しかし東日本大震災では一部損壊となっています。
改装工事は以前にも何度か行われており、大正末期には附属棟が増築されて2F中央バルコニ-床の金属板の張り替え。
昭和30年代には外階段をコンクリートに変更して、漆喰壁がカゼインやプラスターで補修されました。
文化財としての保存修復工事は➀昭和62年(1987)~平成元年(1989)、②平成24年(2012)~平成25年(2013) の2回、実施されています。
旧登米小学校2
六方と呼ばれた生徒用玄関は建物の左右に有り、当初は男女別であった
旧登米小学校・玄関天井
六方の屋根裏
旧登米小学校・土間
土間は割栗石の上に石灰・砂利・粘土を突き固め、稲井石の上に土台をのせている
旧登米小学校5

旧登米小学校・教室1
大正時代の再現教室
旧登米小学校・教室2
昭和時代の再現教室
旧登米小学校・和室
2F裁縫室兼講堂(昭和18年頃の様子に復元)
可動式の板壁で仕切られた教室2室を昭和17~18年に床の間と畳がある教室に改装したが、昭和30年代に普通教室に戻された。
昭和末期の修復工事で板壁を外し、床・違い棚・畳を復活。
旧登米小学校・欄間
板壁で隠されていた欄間
旧登米小学校・校長室
校長室
旧登米小学校・バルコニー
2F中央バルコニ-床は当初から黒亜鉛板敷き
旧登米小学校・装飾
同じ意匠の柱頭飾り(左:登米高等尋常小学校,右:登米警察署)
旧登米小学校6
左:窓の敷居の水抜き穴,      右:傘立て
敷居の水抜き亜鉛管は紛失または破損のため昭和末期の修復工事で全て交換済
旧登米小学校4

 この小学校が明治21年に建設された後、小学校の建設に関する全国区の条例が制定されました。
これは明治23年の小学校令(勅令第215号)第19条の細則である、小学校設備準則(文部省令第2号)として明治24年4月に公布されたものですが、同年11月に改正されています。
既に明治6年には奨励する学校建築として「文部省制定小学校建設図」で凹凸+-口工の形で玄関3ヶ所、片廊下or中廊下という平面図が提唱されていました。
 さらに文部省は明治24年に小学校設備準則を決めたのですが、建設費が掛かり過ぎると反対意見が多く出たため、生徒数に対する最低床面積も無くし、9条→4条と項目を減らして改正しました。
この文部省令を基に各県が「小学校設備規則」を定め、地域の条件に合わせたようですが、その当時は資産家らの寄付により建設された学校が多く、地域によりバラツキがありました。
宮城県では『学校建築心得(明治16年)』にて、四間×五間の長方形で生徒30人迄の教室を推進していました。
 登米高等尋常小学校は当時の理想とする学校建築であったようで、明治20年に文部省視学官の中川元が訪問した記録があり、森文部大臣の東北巡視先として推薦したようです。
当時の奥州日日新聞によると、小学校は10月末か11月初旬に完成で、建築中の登米警察署と合同落成式を行う予定でしたが、文部大臣が来るとの事で10月9日に急きょ落成式が行われました。
しかし暴風雨のため文部大臣は登米まで来れなかったとあり、午後2時に始まった落成式で山添が落成報告書を朗読し、蒔き餅や男子高等生の柔軟体操が行われた後、2階で招待客に日本料理が饗応されたと書かれています。
旧登米小学校3
【参考文献】
「重要文化財 旧登米高等尋常小学校校舎保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会 1990
「登米郡史.上」登米郡1923

【2018年7月 訪問】
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