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2019.
02.17
Sun
三井記念美術館『三井家のおひなさま』
会期:2019年2月9日(土)~4月7日(日)
開館時間:10:00~17:00(入館は16:30迄)
休館日:月曜,2/24(但し2/11,2/25は開館)
入館料:1,000円(大人)
所在地:東京都中央区日本橋室町二丁目1番1号 三井本館7階
TEL:03-5777-8600

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 毎年楽しみにしている、三井記念美術館「三井家のおひなさま」展  ※詳しくはコチラ⇒【三井記念美術館
今回は三井家に加えて、京都・丸平文庫所蔵の人形が展示されています。 
それらの市松人形や子供人形は、私が好きな平田郷陽の作品でした!
その中でも特に心惹かれたのは、「凧」「つぼみ」「三吉」の3体。
三井依子氏(新町三井家)が所有した「(個人蔵)」は昭和6年に完成した男の子の人形で、何度もその顔を見たくなるほど素晴らしいものです。
依子氏もこの人形に魅せられたのでしょうか。 チラシに掲載されている「つぼみ(個人蔵)」は翌年に作られていて、これまたすごく可愛い。
また「三吉(丸平文庫蔵)」もとても良い人形です。
そして、庶民風な女の子「」。 実は平田郷陽の弟・平田陽光の作品で、とても気になる人形です。
この人形の足元にいた木彫りのウサギは、現代の人形師・﨑山智水.作との事で、入口に展示されている賀茂人形も同じ氏の作品でした。
その他にも毛植の狆(犬)が幾つかいて、人形好きにお薦めの企画展となっています。
※丸平文庫と平田郷陽・崎山智水の作品についてはコチラ⇒【丸平文庫


 美術館のある三井本館は、設計:Trowbridge and Livingston、施工:James Stewart により、昭和4年(1929.3.23)竣工。
鉄骨鉄筋コンクリート造、地上7階(竣工時は5階)地下2階の建物で、三井記念美術館内では旧食堂と小金庫の扉を観る事ができる。


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2019.
01.27
Sun
所在地:東京都大田区池上1-1-1
アクセス:東急電鉄・池上駅~徒歩約10分 or 都営地下鉄・西馬込駅~徒歩約12分 or
JR大森駅前~バス「本門寺前」下車~徒歩約5分
TEL:03-3752-2331
  ※詳しくはコチラ⇒【池上本門寺HP
池上本門寺
 日蓮聖人が弘安5年(1282) 療養のため常陸にある温泉へ向かう途中、この地にあった池上宗仲の館(現:本行寺)で入滅。
荼毘され、遺灰が安泰されました。
池上宗仲が寺域を寄進して長栄山本門寺が開基されて以降、徳川家や加藤清正らの庇護を受け、大伽藍を形成する大本山に発展しましたが、昭和20年の空襲で殆どの建物が焼失。 五重塔・多宝塔・総門・経蔵だけが延焼を免れました。
池上本門寺・五重塔
五重塔:棟梁・鈴木近江守長次らにより慶長13年(1608)上棟したが、慶長19年の大地震で傾き、元禄15年(1702)現在地へ移築。
その後も何度か修理が施され、平成の大修理(1997年着手~2002年完了)で解体修復工事が実施された。
池上本門寺・経蔵
経蔵:天明4年(1784)再建され、昭和7年(1932)棟梁・小木新七が修復している。
多宝塔の棟梁・小木新七(藤原信盛)は池上本門寺の宮大工であり、嘉永6年の五重塔修理は小木新七(藤原信久)、この経蔵修理は小木新七(薫雄)と、代々襲名した棟梁達が手掛けた。
内部にある八角輪蔵の中に一切経が納まり、輪蔵を発明した傳大士と二子普建普成像(笑仏)が安置された。
桐の抽斗は戦後に改造されており、後に安置された御前立の仏像は2012年1月に盗まれてしまった。
池上本門寺・経蔵内
経蔵内部:ちょうど自動車の安全祈願をされており、内部を拝見する事が出来た。(2017年9月撮影)
奥に見える八角輪蔵は毎年4/28の千部会で子供が回したというが、現在は廻す事が出来ないようだ。
この様に古い輪蔵を回せる寺は少ないが、過去に東京文化財ウィーク特別公開で増上寺へ行った際に、経蔵内にある輪蔵を廻す事が出来たので驚いた事がある。
池上本門寺・多宝塔
日蓮聖人.荼毘跡に建つ多宝塔(木造、基壇と蓮華座は石造)
 当初は荼毘跡に御灰堂が建てられ、その後に多宝塔が完成したが、これは江戸後期に再建された建物で、近年まで遺灰が奉安されていた。
修復も何度か行われたが、避雷針引込部からの雨漏りや、床下の傷みが激しくなり、吉田嘉明氏からの寄付金を受けて平成の大修理を実施。
その事前調査により、外部胴身の亀裂・木部腐朽・彩色や漆の剥離・鏡天井の破れ・小塔の勾欄欠失・折り上げ格天井破損などが判明した。
今回は平成21年(2009)10月に修復現場が一般公開された時の様子をご紹介。
池上本門寺・多宝塔修復1
修復工事中に掛けられた素屋根(修復監理は文化財建造物保存技術協会)
池上本門寺・多宝塔修復5
色彩の修復作業中(材料の岩絵具や膠など)
池上本門寺・多宝塔修復3
色彩が施された斗棋
池上本門寺・多宝塔修復7
作業の様子
池上本門寺・多宝塔修復4

池上本門寺・多宝塔屋根
葺き替えた銅板屋根は黒漆塗りに復元された
池上本門寺・多宝塔修復6
相輪などは補修後に金箔押しされた
池上本門寺・多宝塔修復2
多宝塔内部の様子:膠水による色彩の剥離止めが行われ、この後に漆塗りが施された。
四天柱の上部は当初の色彩が残り、柱下部の漆は3回塗り替えた事が判明している。(壁の鏝絵は明治時代と推測されている)


 多宝塔再建は文政11年に上棟、文政13年(1830)建立し、内部の小塔も完成したようで、10体の瑞亀が支える小塔の蓮華座には文政13年の墨書きがあります。
五五〇遠忌の天保2年(1831)に法要が行われますが、天保10年(1839)まで内部の彩色作業が続けられた事が四天柱の柱貫内側の墨書きにより判明しています。
さらに小塔内に納まる厨子は嘉永年間に完成。 嘉永4年に多宝塔外部の漆塗り胴身部に金属板を巻く修復が施されています。
この多宝塔は小木新七(藤原信盛)が棟梁となり、当時の住職が伊豆国土肥から呼び寄せた平田幸助らも参加して完成しました。
石造の基壇に建つ、木造の胴身部は漆塗り仕上げ。 内部は漆塗りの床に、彩色と漆塗りが施された四天柱が建ち、折り上げ格天井には金箔貼の上に草花が描かれています。(柱外は金箔貼の鏡天井) 中心に納まる宝塔形の小塔(木造)には、厨子に入った舎利器が納められていました。
 多宝塔は明治43年に納骨堂(部分)として用途申請され、昭和初期まで下層天井裏や床下に信者の遺物(遺骨や遺髪の一部・写経・持仏)を泰安。
昭和20年4月の空襲で、池上本門寺境内50棟余りを焼失した中、五重塔・総門・経蔵と共に焼失を免れています。
 何度か修復が行われており、明治22年頃と昭和6年頃に四天柱や小塔の修復がされたと考えられ、昭和の大修理(1971~1973)には屋根葺き替え、床組・小屋組の修理、外の彩色一部と漆塗り替え、胴身部の金属板を撤去して赤漆塗りに復元しています。
 平成の大修理(2007年11月着手~2010年3月完了)では…
外部は彩色や漆の塗り直し、銅板屋根葺き替え、柱・床下・小屋組などの木部修理。桟唐戸欄間を井桁橘に戻す復元など。
内部は漆の塗り直し、四天柱の彩色剥離止め、天井の金箔貼り和紙張替え、壁の鏝絵や金物の補修、小塔の解体修理など。
近代に設置された火災報知器・避雷針は更新され、電気設備と雨落ち排水溝を新設しています。
多宝塔修復が平成22年3月に完了すると、日蓮聖人の数珠、施主の写経、新設の木棺に移した信者の遺物などが6月に泰安されました。

【参考文献】
池上本門寺HP/解説板
「池上本門寺宝塔保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会 編著 2010 池上本門寺
「池上本門寺」1966 日本美術社

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2019.
01.13
Sun
所在地:東京都大田区池上1-1-1
見 学:通常非公開(年一回程度、公開)
アクセス:東急電鉄・池上駅~徒歩約10分 or 都営地下鉄・西馬込駅~徒歩約12分 or
JR大森駅前~バス「本門寺前」下車~徒歩約5分
TEL:03-3752-2331
  ※詳しくはコチラ⇒【池上本門寺HP
松濤園1
 江戸城無血開城に対し、西郷隆盛と勝海舟は何度か会見しているようですが、その一つが池上本門寺本坊の庭であったと云われています。
その四阿は残っていませんが、年一回この庭が公開され、園内を散策する事が出来ます。
松濤園6
 長栄山 池上本門寺は日蓮宗大本山の一つであり、幾つか子院がありました。
日蓮聖人の入滅地である本行寺も子院ですが、西郷隆盛は理境院(旧:崇安寺)を陣営の宿舎としていたようです。
松濤園2
 日蓮聖人が弘安5年(1282) 療養のため常陸にある温泉へ向かう途中、この地にあった池上宗仲の館(現:本行寺)で入滅。
荼毘され、遺灰が泰安されました。(遺骨は見延山に帰る)
 池上宗仲が寺域を寄進して長栄山本門寺が開基されて以降、徳川家や加藤清正らの庇護を受け、大伽藍を形成する大本山に発展しましたが、昭和20年の空襲で殆どの建物が焼失。 五重塔・多宝塔・総門・経蔵だけが延焼を免れました。
本坊の庭園(松濤園)にあった茶室等も全て焼失しましたが、池泉回遊式庭園は残っています。
松濤園3

松濤園・松月亭
松月亭:平成元年(1989)完成。 高台にある四阿で、茶会では立礼席として使用される。
松濤園・松月亭2
松月亭内部
松濤園・浄庵
浄庵:平成4年(1992)4月完成。 庭園で一番高い所にある茶室
松濤園・灯篭
浄庵にある手水鉢を備えた灯篭(徳利の様な蛇口が付く)
松濤園・浄庵内
浄庵が茶屋になっていた2015年9月公開の様子(左:玄関、右:床の間の棚)
池上本門寺・精進アイス
茶屋の精進アイス
松濤園5

松濤園・根庵
根庵(こんあん):陶芸家・大野鈍阿の旧宅で八畳二間
根庵と鈍庵が平成2年(1990)裏千家より寄贈され、移築して茶会などに利用。
松濤園・根庵内1
根庵 2017年9月公開の様子:立礼席としてお茶券が販売されていた
松濤園・根庵内2
左:玄関の床板           右:琵琶棚(床の間は屏風に隠れて見えない)  
松濤園4
古そうな根庵の濡れ縁:材が炭化しているが、いつ火災に遭ったのだろうか
松濤園・鈍庵
鈍庵:鈍阿の茶室で平成2年に同じく裏千家より寄贈された
松濤園・鈍庵2
鈍庵:四畳中板敷の茶室


大野鈍阿(どんな,1885-1951)は美濃生まれの陶工で、益田孝(鈍翁)お抱え職人として品川御殿山の屋敷で作陶。
益田が小田原へ隠居すると、目切坂上(中目黒駅付近)根津嘉一郎の屋敷に移り住み、窯を開きます。
晩年は等々力で暮らし、終生 作陶を続けました。
鈍阿の私生活は知られていませんが、娘の大野千慧子は裏千家教授であり、大野宗恵として五島美術館の茶会でお手前を披露しています。
鈍阿は気難しい人であったと話しており、作品も畠山記念館に寄付しているそうです。
 
【参考文献】
池上本門寺HP/解説板
日蓮宗東京都南部宗務所HP
陶説479号「児庵日記(4)鈍阿作志野写麒麟文角鉢」宮腰達朗 著 1993 日本陶磁協会

【2015・2017年 訪問】

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2018.
12.16
Sun
常滑の土管4
 今年11月に常滑を訪問した際に、とこなめ陶の森資料館の企画展を拝見。
陶芸の町として有名な常滑が、土管製造により栄えていた事を初めて知りました。
とこなめ陶の森資料館の企画展
「近代日本を支えた常滑の土管」展
開期:2018/9/15(土)~12/24日(月・祝) 9:00〜17:00
休館:月曜日(祝日の場合は翌日)
会場:とこなめ陶の森資料館 特別展示室(愛知県常滑市瀬木町4-203)
料金:無料         ※詳しくはコチラ⇒【とこなめ陶の森資料館
常滑の土管1
手びねりの土管
常滑の土管木型
明治以降は木型で成型(常設展示室)
常滑の土管3
左:東京汐留遺跡から発掘された鉄道伏樋(=ふせび,明治後期) 右:陶管の木型
常滑の土管2
上:耐酸パイプ(1944~1945) 伊奈製陶及び日本碍子製
下:様々な配管継手
常滑焼
左:呂号燃料製造用の大甕(タンク)と耐酸パイプ
右:平和な時代にはタヌキも作っていたようだ (常設展示室)
元丸利陶管工場1
元.丸利陶管工場:木造に土壁の明治後期~大正時代の建物か?
常滑焼窯跡見学館の看板があったが訪問時は閉鎖されていた
元丸利陶管工場2
元.丸利陶管工場の一部は、名古屋芸術大学常滑工房になっている(愛知県常滑市栄町2丁目53)
常滑窯跡
常滑に残る窯跡
常滑窯跡内
この窯でも陶管を製造していたようで、陶管の木型が残る
常滑の塀
電纜管(電気ケーブル埋設管)を利用した塀
昭和59年(1984)焼成した土管・陶管の名称はセラミックパイプに統一された


 土管といえば「ドラえもん」に出てくる、空き地に置かれたコンクリート製が思い浮かびますが、その歴史は古く、寺院建築の伝来と共に瓦や土管(土樋)の技術が伝わったと云われています。
常滑では江戸時代から鯉江家が土管製造を開始。 明治に入ると木型を開発して神奈川県や鉄道局より受注。
明治18年に鯉江家が鉄道局の土管販売権を開放すると業社が乱立したため、翌年に常産商会(鯉江家)が官許を取得しています。
鉄道伏樋(地中埋設管/Drain)は横切る農業用水等を通すため線路下に布設された横断管路で、これらの鉄道や水道普及により全国(岩手・石川県を除く)で陶管が製造されました。
大正10年に伊奈初之丞(INAX創業者)が、大倉和親(ノリタケ・TOTO・日本ガイシ創業者)より多額の出資を受けて匿名組合.伊奈製陶所を設立。
伊奈伍助(初之丞の弟)考案の陶管製造機で大量生産するようになります。
昭和9年から伊奈製陶所の陶管工場.耐酸部が独立して白色の精炻器の製造を始め、戦時中はタイルや電纜管の生産を停止して、昭和19年から呂号燃料製造用の耐酸炻器を製造しました。
終戦後は進駐軍接収建物の改装用にタイルの生産が再開され、衛生陶器の試作も着手して昭和20年に手洗器・和式大便器が完成。
翌年に東京赤坂の三会堂へ洋式大便器・洗面器を納品したのを皮切りに、昭和22年から便器(汲み取り式)・手洗器の大量生産も開始しています。
一方で陶管の方は、上水道に塩ビ管が採用された昭和中期から生産が減少し、さらに阪神淡路大震災の影響を受けて、常滑では平成16年に陶管製造が終了しています。

【参考文献】
「近代日本を支えた常滑の土管」展リーフレット 2018
「伊奈製陶株式会社30年史」伊奈製陶㈱社史編集委員会1956
「工業調査彙報. 13(4)」商工省工務局 1935

【2018年11月 訪問】

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2018.
12.02
Sun
建築年:昭和2年(1927)
所在地:愛知県豊川市御津町御馬
見 学:個人宅のため通常非公開


旧今泉医院
 毎年秋に開催される愛知登文会(愛知登録有形文化財所有者の会)で2017年に特別公開された旧今泉医院では、古い医療器具も拝見できました。 ※詳しくはコチラ⇒【愛知登文会HP
現在は個人住宅となっておりますが、所有者の許可を得て今回は掲載いたします。
旧今泉医院・手洗い場
畑作業などで汚れた患者が手を洗う場所には、伊奈製陶(鳥の絵+INA SEITO CO.,LTD+ISマーク)の手洗い器が付く。
これには日本工業規格の『JIS』マークが無いので、昭和22~24年の物のようである。
◇菱形の中にISマークの社標は、大正13年~昭和18年と終戦後に使用された。(戦時中は違う社標)
常滑の伊奈製陶所→伊奈製陶(INA)→イナックス(INAX)となっていたが、近年統合されてLIXILになった時、寂しい気持ちになった人は少なからずいたと思う。 ※伊奈製陶についてはコチラ⇒【常滑の土管
旧今泉医院・水道
井戸水を高架水槽までポンプで汲み上げ、院内の水道に使用。
旧今泉医院・受付
左:玄関の照明           右:受付窓口
旧今泉医院・担架
室名札と担架
旧今泉医院・調剤室
調剤室
旧今泉医院・診察室
診察室
旧今泉医院・古写真
当時の様子(展示写真より)
旧今泉医院・器具
写真にある医療器具がそのまま残る
万力で固定された遠心分離器は、ハンドルで回す手動式
旧今泉医院・手洗い器
医療用の手洗い場(衛生陶器メーカーは確認できず)
旧今泉医院・床
診察室の床は天然リノリウム張り
旧今泉医院・天井
天 井
旧今泉医院・応接室
応接間は晩年の今泉忠男氏の寝室となった
旧今泉医院・洗面所
洗面所
和製マジョリカタイル
右上にある多色草花文レリーフタイル(メーカー不詳19C~20C初) INAXライブミュージアム蔵
先日、常滑を訪問した際にINAXライブミュージアムに立ち寄り、企画展を撮影したもの。
掲載のため写真を見返したら、色違いの同じタイルがあったので驚いた。
★企画展『和製マジョリカタイル―憧れの連鎖』 2018.11.03(Sat)~2019.04.09(Tue)
※詳しくはコチラ⇒【INAXライブミュージアム
旧今泉医院・2F1
2F座敷
旧今泉医院・2F2
2F次の間:畳は剥がしてある
旧今泉医院・病室棟
病室棟:住居として建てられたのだろうか?床の間付きの部屋が有る
当初は住み込みの看護師が二人いたが、閉院時には一人となった
旧今泉医院・病室
部屋の両側に廊下が付く
旧今泉医院・噴水
庭の片隅にある噴水
旧今泉医院・窓2

旧今泉医院2


 江戸時代に一色家の家臣であったという今泉家は、3代目・今泉龍蔵の頃に明治維新を迎え、赤根村の代官の任を解かれます。
その長男・健蔵は豊橋にある町医者の書生となり、医学書を書き写して勉強し、明治30年に医師開業免許を取得。
明治36年から御馬村に移転し、昭和2年に医院を新築。 昭和4年に東京から戻ってきた息子の忠男も診療に加わり、外来は父親、往診は息子が担当し、虫歯の治療から分娩まであらゆる診療を行いました。
昭和63年(1988)忠男の引退に伴い閉院し、現在は御子孫の方が住居としています。
旧今泉医院3
【参考文献】
旧今泉医院内の解説板
「伊奈製陶株式会社30年史」伊奈製陶㈱社史編集委員会1956
京都学園大学リポジトリ『幕末・維新期における尾張藩の「勤王誘引」活動』 松井 悠奈

【2017年11月 訪問】

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