2018.
06.03
Sun
 盛岡監獄の大火以降、明治中期~昭和初期にかけて多くの建物が造られました。
盛岡に残る、その時代の建物を幾つかご紹介します。
ライト写真館1
ライト写真館(中央通1-6-16) 建築年:昭和期、 混合造2階建て
ライト写真館2
昭和27年の商工録には「ライト写真館・唐 健吾」となっている。
兄の唐 武治は明治から写真師として活躍しており、大正2年の「岩手県商工人名録」には所在地が日影門外小路(現在地付近)となっていて、健吾も一緒に働いていたようである。
ライト写真館3
左:ステンドグラス          右:玄 関



佐藤写真館1
佐藤写真館(中央通1-13-60) 建築年:昭和初期、 木造2階建て 
佐藤写真館3
ライト写真館の斜め前にある現役の写真館で大正時代に創業



唐たけし写場
唐たけし写場(中ノ橋通1-5-2) 建築年:昭和24年
京都で修業した唐 武は父・武治の写真館を受け継ぎ、叔父・健吾と一緒に営業していたようだ。
二人の所在地は昭和2年「盛岡市統計調査課 商工録」で日影門外小路となっている。
昭和10年に唐 武は現在地に開店するが、この建物は戦後に建てたものであり、廃業後は改装されて飲食店などが使用している。
ちなみに昭和27年の商工録には「東北写真館・唐 武(呉服町)」の記載あり。



開運橋通2丁目事務所1
旧 事務所・住居(開運橋通2-7) 建築年:昭和初期、 木造2階建て
岩手塩元売㈱/東北砂糖㈱の所有か、現在は使用されていない。
開運橋通2丁目事務所2



八幡町番屋
八幡町番屋(八幡町1−17)
明治27年(1894)頃に建造された『い組』の番屋であったが、残念ながら解体されて望楼のみが残された。



みちのくのあかね会
みちのくあかね会 工房(名須川町4-30) 建築年:大正~昭和期、 木造
三ツ石神社の近くにある学校の様な建物は、盛岡市民病院の一部を移築したもの。
戦争未亡人・引揚者の仕事を増やすため、昭和33年「盛岡婦人共同作業所」が発足し、昭和37年「㈱みちのくあかね会」設立、手織りのホームスパンを制作している。 歴代社長の中には遠山美知(⇒旧石井県令邸)もいる。
みちのくあかね会:見学可,10~17時(12~13時 昼休み),土休日・お盆・年末年始は休み, TEL:019-622-2648

【2017年6月 訪問】


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2018.
05.20
Sun
【紺屋町界隈】
紺屋町番屋
紺屋町番屋 (紺屋町4-33)木造2階建て+望楼 
明治24年(1891)盛岡消防よ組番屋として建てられ、大正2年(1913)消防組第四部消防屯所として、大工の石倉久太郎らにより改築されたと云われる。 現在は盛岡市消防団第五分団の詰所。
1階は車庫/用具置場で昭和33年(1958)一部が座敷に改造、2階は畳敷き大広間となっている。
ござ九1
茣蓙九(現・森九商店):盛岡市紺屋町1-31 江戸~明治 複数棟、木造2階建
沢井屋の九兵衛が、茣蓙(ござ)・縄・草鞋・雪靴・畳表などを扱っていた事から「茣蓙屋の九兵衛」と呼ばれ、屋号が「茣蓙九」となる。
現在は籠や雪靴などインターネットでも販売中。 8:30~17:30,㊡日,TEL:019-622-7129 
ござ九2
左:複雑な卯建(うだつ)      右:店内の一部床に見られる煉瓦タイル
中央タクシー
中央タクシー上ノ橋営業所 (盛岡市紺屋町5-20) 建築年:昭和時代
映画に出てきそうな建物で趣がある
東光書店
東光書店 (上ノ橋町1-56) 建築年:大正~昭和初期、木造2階建て
現役の古書/本屋。 外壁は昭和後期にサイディングを重ね貼りして改装したようである
10:00~17:00,㊡火,TEL:019-651-7300

【下ノ橋界隈】
煉瓦倉庫(下ノ橋町)1
煉瓦倉庫 (下ノ橋町2丁目) 建築年:明治末期 混合造
明治45年に池野七太郎により倉庫として登記され、大正初期に協栄銀行支店→昭和5年に富士屋印刷所→その後は東北総業の所有となった。
㈱富士屋印刷所のHPによると明治28年に呉服町に「富士屋藤陽堂」を創業し、大正元年に六日町へ移転、昭和44年に馬場町へ工場移転となっている。 医学会会堂を所有していた富士屋印刷所が、銀行移転後この煉瓦倉庫を買い足したようだ。
施主の池野七太郎は、大正2年の文献には小間物商とあり、木津屋(池野藤兵衛)の分家と考えられるが、大正15年の文献には穀町で化粧品・油類を扱う「木金(屋号)池野金太郎」となっている。
平成2年の調査によると、1F:煉瓦造(1枚半オランダ積+煉瓦タイル)、2F:木造(モルタル/煉瓦タイル)。 内壁は漆喰塗り、1~2F床は板張り、窓は鉄扉付き木製サッシ。 銀行時代の改修か、窓には鉄格子が嵌り、1Fはカウンターで仕切られている。 隣にあった盛岡医学会会堂(1889.木造2F)は既に解体。
船山内科クリニック1
船山内科クリニック (下ノ橋町4-15)  建築年:大正~昭和初期、木造2階建て
下ノ橋町4丁目店舗JPG
旧 店舗 (下ノ橋4丁目)  建築年:昭和時代
同じ設計者か、下記の建物と似た特徴を持つ
店舗(肴町)
店 舗 (肴町9-35) 建築年:昭和時代 

【鍛冶屋町界隈】
木津屋本店(鍛冶屋町)
木津屋本店(南大通2-3-20)  建築年:天保5年(1834年) 土蔵造
木津屋は寛永15年(1638)創業し、現在も事務用品・オフィス家具・OA機器の卸小売業として営業中。
池野家(当主は池野藤兵衛を襲名)本家の店舗兼住居で、蔵なども残る。
旧池野家・蔵(鍛冶屋町)
ちょうど改修中で裏手の様子が見られた。  蔵の腰壁一部は明治~大正頃に修復されたものと思われ、地元の焼きむらがある煉瓦が使用されている。
鎌田薬局1
旧 鎌田薬局 (鍛冶屋町3-35) 建築年:昭和初期 木造2階建て
鎌田薬局2
看板建築で3階の窓はフェイク
IMGP0316.jpg
◆鍛冶屋町ならではの斎坂製作所(鍛冶屋町10-1)
浜藤
◆もりおか町家物語館:鉈屋町10-8
昭和まで酒造りをしていた浜藤の主屋・酒蔵・文庫蔵(江戸末期から明治前期)を展示室・ホール・物産館として改装。
隣りに消防第2分団の詰所が番屋風に再現された.
浜藤1
9~19時,無料,㊡第4火(祝日の場合は翌日)・12/29~1/3, TEL:019-654-2911

【参考文献】
「もりおか物語8」盛岡の歴史を語る会 1978
盛岡市所在古建築物調査報告書3「工藤勝四郎所有れんが造り建造物」久慈次男 著 1995 盛岡市教育委員会
「岩手県商工人名録」1913 盛岡実業協会
「盛岡商工人名録」1926 盛岡商業会議所
「岩手県の近代化遺産」1997 岩手県教育委員会

【2017年6月 訪問】


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2018.
04.30
Mon
建築年:明治40年(1907)改装有り
構 造:木 造
設計施工:不 詳
所在地:岩手県盛岡市安倍館町19-64
公 開:10時~15時
休 館:月・火・8/10~8/20・12/25~1/15
電 話:019-646-1817
アクセス:JR岩手駅前~「安倍館」バス停~約3分  ※詳しくはコチラ⇒【一ノ倉邸
一ノ倉邸
 東京都知事などを務めた阿部浩の別邸で、次に所有した一ノ倉則文も亡くなり、しばらく無人の状態に。
市民団体が荒廃した建物を清掃して保存活動を始めたところ、その価値が認められ、平成4年に盛岡市が取得し公開しています。
一ノ倉邸・大広間
大広間
一ノ倉邸・座敷1
座 敷
一ノ倉邸・座敷2
次の間
一ノ倉邸・広縁
広縁にある水屋
一ノ倉邸・天窓
中廊下には天窓
一ノ倉邸・洗面所
左:洗面所              右:脱衣所
一ノ倉邸・浴室
浴 室(桶風呂と五右衛門風呂)
一ノ倉邸・便所
便 所:玄関の様に一段下がっている
吊下げ手水器は下の金具を手の平でプッシュすると水が出る仕組み
一ノ倉邸・囲炉裏の間
囲炉裏の間:天井は吹き抜け
一ノ倉邸・展示品
左:鳥カゴの様なストーブ             右:花巻土人形など
一ノ倉邸保存の立役者で管理者でもある西郷和子氏所有の品々が展示されている
一ノ倉邸・池
 かつては大きな池があり木舟が浮かんでいた。 庭の東屋の下には煉瓦を焼いた窯跡があり洞窟の様になっていたという。
昭和17年頃まで池の畔にあった2階建て離れは久保学園(現・盛岡誠桜高等学校)に移築された後、解体されたもよう。
庭には京都の高尾から運んだというモミジが植えられており、紅葉の名所となっている。
 平成24(2012)この池に「復興の花.中尊寺ハスを広める会」の株分け第1号が植えられた。
これは中尊寺金色堂の藤原泰衡の首桶にあったハスの種から開花したもので、奥州藤原氏ゆかりの厨川柵にあるという事で移植された。
一ノ倉邸・井戸
井戸

 施主・阿部浩は嘉永5年(1852)盛岡生まれ。 南部藩士の父が早世して母の手一つで育てられますが、幼馴染で後輩の原敬を背負って岩山に登るほど立派に成長します。 幕末に地儀隊に参加して秋田へ向かう途中、南部藩が敗北。
明治に入ると役人になり、鉄道事務官として国鉄盛岡工場の誘致を勧めたり、分課規程の草案を作成しますが、議論の最中に長官の井上勝を殴るという風聞があるほど血気盛んであったようです。
その後は衆議院議員となり、社寺局長まで昇進。 千葉・東京・新潟などの知事を歴任しています。
私生活では書家の佐々木辰(タツ)と結婚して一男4女を儲け、長男・金剛はシュールレアリズムの画家となりました。
 阿倍一族の末裔と称していた阿部浩は所縁の地を購入し、東京から庭師を招いて造園。 明治40年(1907)秋この別邸が完成。
阿部浩が大正11年(1922.10.7)東京の品川本邸で他界すると、大正14年(1925)この土地・建物を一ノ倉則文が買収しています。
 一ノ倉則文は、一ノ倉貫一(岩手県農工銀行頭取・衆議院議員)の孫で、岩手県農工銀行や岩手林業㈱の取締役を務めた人物であり、郷土史研究家として盛岡の歴史に関する著書も出している事から、厨川柵にあるこの屋敷に興味を持ったのかもしれません。

【参考文献】
「岩手県盛岡市当面之人物」 岩手民友新聞社1930
「庭園物語」 岩手日報社 1954
「もりおか物語10」 盛岡の歴史を語る会 1979
「岩手県近代和風建築」 岩手県教育委員会 2007

【2017年6月】


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2018.
04.15
Sun
建築年:大正9年(1920)竣工、 曳き屋・改装有り
構 造:煉瓦造2階建て
設計施工:不 詳
所在地:岩手県盛岡市大沢川原3-5-26
公 開:平日9時~17時の空室時(12時~13時は昼休み)
休 館:8/13~8/16、年末年始
電 話:019-654-6067
アクセス:JR岩手駅~徒歩約8分
  ※詳しくはコチラ⇒【盛岡市HP
旧宣教師館1
 この建物は大正時代の宣教師館で、現在は『大沢川原センター』という公民館なっており、朝一番に訪問して管理者の許可を得て拝見しました。
しかしその日は朝から予約で満室状態。 早々に貸室利用者が訪れ、椅子を出す手伝いをしながら慌てて写真を撮りました。
 米国リフォームド・ミッションが盛岡基督教会(現・下ノ橋教会)の宣教師住宅を建てるため、明治21年(1888)土地を購入。
大正9年(1920)にこの建物が建設されました
さらに同じ敷地内に、昭和6年(1931)幼稚園併用のキリスト教センター『盛岡善隣館』が新築され、英語教室などを開催。
その後の道路拡張により土地建物は昭和51年(1976)盛岡市に売却され、宣教師館は曳き屋されました。
盛岡善隣館は閉鎖となりましたが、NPO法人善隣館として再始動。 現在も様々な活動しています。
旧宣教師館1F
1 F
旧宣教師館1F暖炉
1F居間の暖炉
旧宣教師館・台所1
台所(昭和時代に改装?)
旧宣教師館・台所2
現在のシステムキッチンに負けないほど良い構成
旧宣教師館・玄関
勝手口の内と外
旧宣教師館・1Fホール
1F階段ホール
旧宣教師館・便所
左:1F階段下の便所             右:2F浴室跡
旧宣教師館・電気
左:1F便所の捻り式スイッチが現役!(当初の物かは不明)
右:三共電気製? 昭和30年代の物か
旧宣教師館・2F2
2Fサンルーム付きの部屋
旧宣教師館・2F1
反対側には窓付きの室内物干し場がある
旧宣教師館・2F3
畳敷きに改装された2Fの部屋
旧宣教師館・造作
左:造作家具                     右:謎の口
旧宣教師館・窓
上げ下げ窓:窓枠内部の錘により、自由な高さで留める事ができる
※錘についてはコチラ⇒【旧 第五十九銀行本店
旧宣教師館・2F廊下
左:2F廊下               右:2F階段ホール
旧宣教師館・階段
屋根裏への階段
旧宣教師館・屋根裏部屋1
屋根裏部屋
旧宣教師館・屋根裏窓
屋根裏の窓
旧宣教師館・煙突
東日本大震災で落ちた煙突
旧宣教師館5
左:階段下に見える煉瓦壁         右:玄関扉
旧宣教師館2
 現在の玄関は裏手にあるが、当初は北側道路に面していた。
間取りは、1階に居間・食堂・台所・書斎・便所・ボイラー室・パントリー。 2階は主寝室・寝室3室(教室)・浴室・リネン室。
屋根・外壁仕上げや室内は改装されている。
下ノ橋教会1
下ノ橋教会(1950竣工) 
〔所在地〕盛岡市内丸1番2号,JR盛岡駅~徒歩約15分 HP⇒下ノ橋教会
 前日、旧石井県令邸の訪問前に時間があり、町中を散策した際にこの教会を発見。
信者の御婦人方が中を案内して下さり旧宣教師館の教会と知る。
下ノ橋教会2
 かつては『盛岡基督教会』と呼ばれ、明治21年(1888)宣教師のミラー夫妻と三浦徹牧師が盛岡に着任した事により始まる。
明治28年(1895.1.12)会堂と牧師館が完成して7月に献堂式。
昭和18年(1943)下ノ橋保育園を開設。 昭和20年(1945.12.23)会堂が全焼し、集会や保育は牧師館にて行う。
昭和23年(1948 )下ノ橋保育園を廃園し、4月から善隣館で下ノ橋教会付属泉幼稚園を開園。
昭和25年(1950.12.10)現在の会堂落成式を挙行。
この地はかつて盛岡城の下ノ橋門内にあたる→「盛岡城の今昔図」盛岡市HP
下ノ橋教会3
外壁は新建材で改装済み

【2017年6月 訪問】


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2018.
04.01
Sun
建築年:明治18年(1885)頃,改築あり
構 造:木造一部2階建て
設計施工:不 詳
所在地:岩手県盛岡市清水町13-46
公 開:有 料,(4/1~11/30)10時~17時,(12/1~3/31)10時~16時, ※貸室時は見学不可の場合有り
休館日:月曜日(祝日は公開)・火曜日・年末年始(12/26~1/10)
電 話:019-604-6633
アクセス:JR岩手駅前~『下の橋町バス停』~約5分
  ※詳しくはコチラ⇒【南昌荘
南昌荘1
 鉱山経営者・瀬川安五郎の邸宅として建てられ、次々と所有者を変えながら現在はいわて生活協同組合が所有・公開しています。
各部屋は貸室としても利用され、訪問時は見る事ができない部屋もありましたが、立派な庭園がありました。
南昌荘・松鶴の間
松鶴の間(3部屋続き):金田一勝定邸の時代に増改築されたという
南昌荘・南昌の間
南昌の間 入口(中2階):進駐軍接収の時代に畳敷き→板敷きに改修
訪問時は個展が催されていた
南昌荘・香葉の間
香葉の間 (右:ボールベアリング式の金庫の蝶番)
他の屋敷では、金庫のある部屋は夫人やしゅうとが金庫番となり、居間や寝室としている事が多い。
南昌荘・その他
左:孔雀の間             右:家族用玄関
南昌荘・2F
2F座敷 (通常非公開)
南昌荘・2F襖
2F座敷の襖 (通常非公開)
左:いつの時代か不明の落書きが      右:襖は芭蕉布と思われる
南昌荘・階段
階 段 (通常非公開)
南昌荘・朝鮮人形
朝鮮人形:2人目の家主・大矢馬太郎(盛岡市長)が朝鮮旅行で購入したもの
庶民の人形がとても愛嬌がある
南昌荘2
庭は東京から庭師を呼び寄せ造園したもので、太鼓橋は後の所有者が設置
南昌荘・庭石1
左:庭の道標である追分石(左:蓬莱橋、右:高砂松)    右:一風変わった庭石
南昌荘・池
雨上がりで池が増水していた。 もしやこれが蓬莱橋だろうか?
南昌荘・庭石2
庭石
南昌荘・茶室1
茶室「幽泉」:紅葉の時期などに公開される。 束石などが不自然なので移築したものか?
南昌荘・茶室2
茶室「幽泉」 (左:入口,  右:腰掛待合?)
南昌荘・東屋
東屋


 鉱山経営者・瀬川安五郎が、明治17年(1884)盛岡監獄の大火で餌差小路(現:肴町)の本邸を焼失し、上衆小路(現在地)に新築しました。 
施主の瀬川は天保6年(1835)盛岡の商家に生まれ、生糸商として成功したあと釜石や荒川の鉱山経営(1876~1896)に乗り出して巨万の富を築きます。 その頃には秋田にも屋敷(現:赤レンガ郷土館の前)を設け、明治14年には天皇の行在所となり、鉱山にも別邸がありました。
また、盛岡の餌差小路にあった焼失前の本邸は、明治9年(1876年)天皇巡幸に同行した右大臣(岩倉具視)の宿舎となっています。
しかし明治40年の恐慌でこの屋敷を手放す事になり、明治44年(1911)他界。
 その後、大矢馬太郎(盛岡市長)別邸になると園遊会が催され、伊藤博文や李垠皇太子が訪れ、明治43年(1910)実業家・金田一勝定(盛岡銀行頭取、岩手軽便鉄道・盛岡電灯の社長)の自邸になってから増改築が行われました。
 大正9年に金田一勝定が他界した後は長男・直太郎の所有となり、その後に嫡子の金田一国士(長女の夫)へ譲渡されます。 
そして蔵の部材が花巻温泉へ移されたようです。(現:カフェ・ド・蔵か?)
 昭和14年からは盛岡の呉服商・赤澤多兵衛別邸となり、書家・新渡戸仙岳が「南昌荘」と命名。
戦後の進駐軍接収を経て、赤澤家に返還され2代目・多兵衛の自宅に。 昭和62年(1987)から盛岡市民生協(現:いわて生協)の所有となりました。
南昌荘3
【参考文献】
「岩手県近代和風建築」 岩手県教育委員会 2007
「庭園物語」 岩手日報社 1954

【2017年6月 訪問】


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