2017.
10.29
Sun
やみけん・3兄弟
                                                ©YAMIKEN
 コマ撮りアニメ『BUBBLE HEADS(バブルヘッズ)』の制作支援、募集されています!
30分の短編作品「JUNK HEAD1」は堀 貴秀氏が、建築内装業などの仕事をしながら4年間かけて自主制作した作品で、その後は出資を受けて115分の長編作品「JUNK HEAD」が完成し、各国の映画祭で上映されています。
人形を少しずつ動かしながら撮影していくコマ撮りアニメーション(ストップモーションアニメ)で、気の遠くなる程の制作日数がかかります。
 人形好きの私、チェコ等の昔のコマ撮りアニメもよく観ていました。 偶然ネットで情報を見つけた先行上映会(2017.6.25秋葉原UDXシアター)で「長編JUNK HEAD」を鑑賞。 グロテクスでありながらブラックユーモア溢れる作品に引き込まれました。
そこに登場する人気キャラクター3兄弟(3ばかトリオ)が、今回制作される『BUBBLE HEADS(バブルヘッズ)』の主役になるようです。
今までの制作過程はホームページで詳しく紹介されていますので、そちらをご覧下さい。 ⇒【YAMIKEN
ただいまクラウドファンディングで制作費を募集していますので、気に入った方は参加してみてはいかがでしょうか。
※支援額により特典が異なります ⇒【キックスターター

受賞歴
 (短編)
・ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2014:短編部門グランプリ
・第36回クレルモンフェラン短編映画祭(仏):ベストアニメーション
 (長編)
・ファンタジア国際映画祭2017(加)特別賞
・ファンタスティック映画祭2017(米)NEXT WAVE部門 最優秀監督賞

【2017年10月】


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2017.
10.22
Sun
所在地:東京都福生市福生1158
アクセス:JR福生駅~徒歩約7分
見 学:10:00~16:00、無料
休 館:月曜日(祝日の時は翌平日)、年末年始
  ※詳しくはこちら⇒【福生市郷土資料室
ヤマジュウ
 福生市の文化財ガイドツアー(2016年11月,郷土資料室主催)に参加して、田村酒造場の次に訪れたこの家。 
田村家(田村酒造)の分家として明治35年(1902)に独立した頃、本家の建物を移築したと云われています。
田村幸三(幸蔵?)は明治44年(1911.6.1)無集配の三等郵便局『福生郵便局』を家の向かいに開設し、初代局長を務めました。 
大正5年に別の地に局舎を新築移転した後も、近年まで田村家が局長を務めています。
平成25年に建物が寄贈された福生市は、翌年に土地を購入して修復工事を行い、平成27年度から一般公開しています。
ヤマジュウ2
主屋:明治35年(1902)木造、 大正5年(1916)改築、平成26年(2014)修復
ヤマジュウ・内部1
明治の住宅だが、土間に座敷という古典的な間取り
ヤマジュウ・神棚
神棚:裏面に明治10年(1877)新築落成時に田村半十郎がこの神棚を造ったと記されている
田村半十郎(十兵衛の長男、1912没)は、本家(田村酒造)明治時代の当主で、八王子まで電車の開通を勧めたメンバーの一人であり、甲武鉄道㈱や青梅鉄道㈱の取締役にも就任している  ※本家についてはこちら⇒【田村酒造場
ヤマジュウ・内部2
奥座敷
ヤマジュウ・内部3
奥座敷の飾り棚 地袋(左:落款、 右:引手金物)
ヤマジュウ・寝間
寝間
近代的に収納を多く取っている(押入れは両方から出し入れ可能)
ヤマジュウ・廊下
廊下にも収納を設けてある
ヤマジュウ・手水所
便所の手水場 
左:客用(洗面台の所に小便器があった)    右:家族用
ヤマジュウ・土間1
土間を分断し、台所と繋がる廊下が造られている
左手に高さのある玄関框があり、公開時に階段が設置された
この様な階段や踏み台がない場合は膝から上がり、履物を揃えてから入ると良い
ヤマジュウ・土間3
左:土間の一部を部屋に改修         右:屋根裏スペースもある
ヤマジュウ・土間2
土間の脇にある台所と風呂場
ヤマジュウ・風呂跡
右:台所内にある風呂釜 兼コンロ?(燃料はコークス等)     右:風呂跡
ヤマジュウ・土蔵1
手前が東土蔵(明治37年、修復済み)、奥に西土蔵(明治44年、非公開)
西土蔵には冠婚葬祭用の食器などが収納されていた
ヤマジュウ・土蔵2
土蔵の裏側
ヤマジュウ・土蔵3
土蔵の床下換気口にはの屋号が
この家の屋号は『仐=ヤマジュウ(山へんに十)』で、本家は『カネジュウ(矩へんに十)』と呼ばれていた
なお、土蔵の床下には古瓦や古レンガを配置して湿気を防ぐ工夫がされている
ヤマジュウ・土蔵内
かつて郵便局の道具類などを収納していた東土蔵
訪問時には昭和初期の福生の記憶画(窪田成司)が展示されていた
旧福生郵便局1
旧福生郵便局:現在は純福音福生教会
旧福生郵便局3
屋根も部分的に古い物が残る
旧福生郵便局2

【参考文献】
「遞信省告示第580号」1911 
「福生町誌」1960 福生町
「明治過去帳 : 物故人名辞典」1988 東京美術

【2016年11月 訪問】


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2017.
10.09
Mon
所在地:東京都福生市福生626
アクセス:JR福生駅~徒歩約10分
営 業:8:30~17:00
蔵見学:10名以上で受付(12~1月を除く) ※月1回程、少人数受付の見学会あり
休業日 :日・祝日(月曜休業あり)
TEL:042-551-0003
   ※詳しくはこちら⇒【田村酒造場
田村酒造
 難読地名は東京に結構ありますが、『福生』もその一つといえるでしょう。
福生市には造り酒屋が2軒あり、普段は団体のみ公開する田村酒造場の蔵見学が、福生市の文化財ガイドツアー(2016年11月,郷土資料室主催)に含まれていたので参加してみました。
 この蔵元は、文政5年(1822)福生村の旧家の当主・勘次郎が酒造業を興して、武州一帯の酒造家や酒店に酒造技術や経営法を提供し、各店舗に「かねじゅう(矩へんに十)」マーク(家印)を掲げさせるという、現代でいうフランチャイズ経営をしていたようです。
現在も『嘉泉』を始めとする様々な日本酒が醸造されています。
田村酒造2
酒造蔵:煙突のある蔵はRC造で新しく、奥にも木造の蔵が連なる
田村酒造・煙突
左:明治時代の煉瓦造の煙突は機能していないが地域のシンボルとして残された
右:ガラス越しに見た作業場には米を蒸す釜が残されていた
田村酒造・酒蔵内部1
古い蔵は文政5年(1822)頃に移築したものと云われ、大正7年(1918)に増改築されている
さらに近年、土間・基礎に新たにコンクリを打ち、一部の木材は交換している
田村酒造・酒蔵内部2
タンクが並ぶ酒蔵:他にも近代的な麹室が設置されている
田村酒造・酒蔵内部3
梁など古い物が残る
田村酒造・酒蔵内部4
2階への階段は古そうだ
田村酒造・前蔵
前蔵(米蔵):文政13年(1830) 木造
2F床を撤去して裏に出入口を設け、現在は商品販売の店舗として使用
この蔵かは不明だが記録(※1)によると、文政13年に完成した土蔵は…1/2土蔵柱を引取る、1/22地業始め、1/29上棟、2/2大工仕舞、3/1壁下地塗り始め、3/28裏壁帰し、4/6土間叩き始め…となっている
田村酒造・雑蔵
前蔵の隣りにある雑蔵(ぞうくら):文久2年(1862) 木造2F
田村酒造・主屋
主屋(非公開) 木造
新しい階段は平成28年(2016.4.12)天皇・皇后 両陛下の行幸啓のために設置された
田村酒造・水車小屋と脇蔵
旧 水車小屋と脇蔵:昭和前期、木造
水車は酒造用の精米や発電に使用し、脇蔵は精米を貯蔵したと云われている
田村酒造・水車小屋
旧水車小屋 水車は残っていないようだ
田村酒造・脇蔵
脇蔵
田村分水路3
邸内を流れる田村分水
田村分水路2
田村分水(下は水車小屋の地下)
田村分水路1
水車小屋裏の田村分水
田村取水堰
玉川上水にかかる田村分水の取水堰
田村分水・取水口
田村分水(私用)の取水口
慶応3年(1867)通水時は直接の取水ではなく、樋→溜井戸→樋を通して僅かな水を邸内に取り入れたようである


 天領(江戸幕府の直轄領)であった福生村では、田村家は代々、名主や組頭などの村役人を勤め、文政5年(1822)当主の勘次郎が造り酒屋を創業しました。
歴代の当主は、勘次郎(安永5年~慶応元年)⇒重兵衛(寛政8年~明治6年)⇒十兵衛(文化13年~明治38年※)と80歳を超える長寿であったようです。
幕末~明治時代の当主・十兵衛の本名は『圭蔵』といい、上川原村(昭島市)の名主・指田七郎右衛門の三男であり、婿入りして家督を受け継ぎました。
 実は指田一族は、この地域の分水路開拓を推進していたようです。
実兄(次男)和吉も熊川村の石川家当主となり、後に石川酒造を創業(1863)し、熊川分水を推進。 羽村の指田茂十郎は水番人をしていたようです。
 幕末の頃、江戸幕府は滝野川村(現・北区)に大砲製造所の建設を計画し、製造に必要な水車を設置するため、慶応元年(1865)千川用水の拡張と延長工事を実施します。
しかし水量は足らず、水制限が懸念された各村から水量確保の願いが出て、田村家が工事費用を負担し、慶応3年(1867)上流域の分水の流末を玉川上水に戻す事で、千川用水や三田用水を増水させました。
 酒造りに必要な水を得るため、以前から願い出ていた田村家にとっては好都合な事で、これにより僅かな水が邸内に引かれます。
ただし使用制限があり、~常に溢れ水に留意する事、規定を越えて水が流れ込む時は樋口に栓を打つ事、吐き捨て水のないよう心掛ける事、池泉水など贅沢なものに使わない事、隣近所や知り合いの者であっても屋敷外へは水の汲み運びは一切しない事~と、かなり厳しいものでした。
それから水車を大いに動かす水量が確保できたのは、明治に入り数年経ってからの事でした。
多摩川近くの村でさえ水を確保するのにこれほど大変だったとは、蛇口を捻れば水が出るありがたさを痛感しました。

【参考文献】
(※1)「年中行事日記帳(文政11年~13年)」田村勘次郎 2016 福生古文書研究会
「熊川分水」福生市郷土資料室,高崎勇作 他 2002 福生市教育委員会
「近代化を支えた多摩川の水」(一般研究)小坂克信 2011 とうきゅう環境財団

【2016年11月 訪問】


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