2017.
11.19
Sun
所在地:神奈川県小田原市南町2-1-27
建築年:明治後期
公 開:木~日・祝日(年末年始除く)、11:00~15:00
料 金:無 料
  ※詳しくはこちら⇒【旧松本剛吉別邸
旧松本剛吉別邸
 銀杏の巨樹がある事から『黄樹庵(おうじゅあん)』と呼ばれた松本剛吉の別邸跡です。
主屋(住居のため非公開)は関東大地震で被災し、その部材を使って名古屋の職人(請負:内藤工務所)が再建した昭和初期の建物です。
 その後、東京府農工銀行頭取であった鈴木茂兵衛らの手を経て、昭和17年(1942)日本橋の木綿問屋「岡正」の岡田正吉に譲渡されました。
岡田正吉(正次郎の長男)は若くして家督を襲ぎ、義兄と共に商売を繁盛させていたようです。
茶室『雨香亭』と腰掛待合はいつの時代に誰が建てたものかは解明されていませんが、凝った造りになっています。
雨香亭2
雨香亭
雨香亭
雨香亭
雨香亭・床下
雨香亭 床下換気口
雨香亭・扁額
雨香亭 扁額
雨香亭・玄関
雨香亭 玄関
雨香亭・広間1
雨香亭 広間
雨香亭・広間2
雨香亭 広間: 障子は母屋のものと似ている
雨香亭・小間1
雨香亭 小間
雨香亭・小間2
雨香亭 小間の床柱は桜
雨香亭・炉
雨香亭 小間の 炉は天然石
雨香亭・水屋1
雨香亭 水屋
雨香亭・水屋2
雨香亭 水屋
待合1
高台にある腰掛待合
待合2
腰掛待合の内部


 若い頃ダメ人間であった松本剛吉は上司に重用され、後に大臣秘書官・衆議院議員となり、山縣や西園寺ら大物政治家の側近として裏政治に深く関わりました。
 文久2年(1862)柏原藩の藩士・今井源左衛門の五男として丹波(兵庫)で誕生。 松元家に養子入りし、10歳で松元剛吉を襲名。(後に松本と改称)
17歳の時に柏原の実家に戻り、巡査か軍人になるための資金として刀を盗み逃亡。 京都の宿まで追ってきた父親は事情を訊き、上京を許してお金を渡してくれました。
 しかし東京へ行くも陸軍士官学校の受験に落第し、店番や寿司屋の出前持ちも上手くいかず、織田家の執事・中川保を訪ねます。
その長男・一郎と共に小石川の同人社へ通う事になりますが遊んでばかり。 織田邸の不寝番となるものの泥棒に入られ居づらい状態に。
 18歳で千葉の巡査試験を受け、踵に詰め物をして身長と年齢のさばを読み合格。
しかし交番での居眠りが見つかり、千葉警察署の内勤に異動。 そこで警部(木更津署長)に誘われ木更津へ転勤し、夜学に通って三等巡査になり、下宿先の親戚の妹サクを嫁に迎えます。
翌年に北條警察署へ転任し二等巡査に、長女・鶴代が誕生した明治14年、一等巡査に昇進し土佐へ異動。
 ところが同郷の県令・田辺輝実が東京に転任する事になり、田に相談せよとの事で同じく東京へ異動となる田健次郎と初めて会う事になります。
田の紹介で土佐の監獄での勤務となりますが、囚人の衣類検査がいやで辞職。 そして大阪行きの船内で宮地茂春と出会い、貿易会社に誘われます。
しかし、父に偽り調達した出資金で、宮地が遊んでいるという話を聞き商売を断念。
明治16年に神奈川県警へ異動となった田から誘われ、庶務掛探偵係に着任。 翌年に長男・卓が誕生し、両親と実母を呼び寄せて伊勢佐木町の官舎で暮らします。
 後に警察を辞めた松本は、後藤象次郎の秘書となっていた宮地茂春(板垣退助の娘婿)と再会し、その紹介で後藤の鞄持ち(逓信属)に。
後藤と陸奥宗光に言われ、九州で郵便局長らに選挙干渉したところ、松本と間違われた教員が殺害される事件が発生しています。
 鉱山・米相場に手を出し明治27年に辞職。 始めた彼是屋が上手くいかず、芝神明町の借家(内田信也の父の持家)から夜逃げ同然で退去。
神奈川の埋立てを画策していた宮地に呼ばれ、橘樹郡長・安達(神奈川県警の元上司)と交渉。 宮地が他界すると、信州の山田藤左衛門や小坂善之助と共に埋立て計画を勧め、明治32年(1899)事業着手の報酬として、出資者・山内家から子安の埋立地3千坪の権利をもらい、佐伯藤之助に譲渡した金で、小田原に家を構える資金としました。
 明治32年に家族を小田原に移し、板垣退助の口添えで林有造の秘書として逓信省に入省した松本は、東京築地の借家で衆議院議員の植木致一らと寄宿。
翌年に星亨から依頼を受けた松本は、植木に辞任するよう交渉しています。(後任の議員は田健次郎、星亨は明治34年に暗殺)
 明治35年に妻サクが他界し、翌年に恭(三輪田真佐子の娘)を後妻に迎え、明治37年に衆議院議員に初当選。
その後、田が逓信大臣(1916)や台湾総督(1919)になると秘書官として補佐しました。
 この小田原の別邸は、東京鉄道の重役になった明治40年頃に担保に出されていましたが、関東大震災で被災すると松本は9/14に帰庵し、再建するほど愛着があったようです。  昭和4年(1929.3.5)他界。

【参考文献】
「第三回調査全国五拾万円以上資産家」1916 時事新報社
松本剛吉自伝「夢の跡」松本剛吉 著(大正14年の複製) 2012 芙蓉書房出版
「小田原市内数寄屋等建築調査 調査概報」小田原市数寄屋等建築調査団 2013

【2016年11月 訪問】



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2017.
11.05
Sun
所在地:東京都福生市熊川1番地
アクセス:JR拝島駅~車8分位 or 徒歩20分位
蔵見学:通年(年末年始・仕込みの時期は休み)、無料、予約制1日3回(他に参加者がいる場合のみ1名参加可能)
TEL:042-553-0100
  ※詳しくはこちら⇒【石川酒造
石川酒造
 午前中に田村酒造を見学後、同じ市内にある石川酒造を訪問。 こちらでは12~1月以外は蔵見学ツアーを随時開催しています。(試飲も含まれる) レストランも併設されており、日本酒や地ビールを味わう事も出来ます。
石川酒造・本蔵
本蔵:明治13年(1880)
石川酒造・本蔵内3
本蔵の内部
石川酒造・本蔵内1
本蔵の出入口:内部は思ったより古く、一部に江戸時代の古材を使って建てたと思われる
石川酒造・本蔵内4
近年になって金物で補強している
石川酒造・本蔵内2
本蔵の基礎は石場建で、石の形に合わせて柱の底を削って上に載せただけの日本古来の工法。
地震の多い日本で倒壊していない建物も多く、免震性があるといわれている。
石川酒造・新蔵
新蔵:明治30年(1897) 酒の熟成用の土蔵
石川酒造・文庫蔵
文庫蔵:文久3年(1863) 非公開
石川酒造・史料室
史料館:雑蔵2階 11:30~、休業日:水・木曜日(祝日を除く)
石川酒造・長屋門
長屋門:江戸時代
石川酒造・麦酒釜の館
麦酒釜の館:昭和62年(1987)
石川酒造・麦酒釜の館2
彫刻家・塩野谷博山による作品(ビール醸造の様子)
真ん中の画像:左は屋号のカネイシ(矩へんに石)、右は現在のシンボルマーク
石川酒造・井戸
麦酒釜の館に置かれた明治時代のビール醸造釜
手前の井戸は現在、テーブルとして使用しているが、昔は秋に蔵人が集まると最初に井戸替え(井戸洗い)が行われた
石川酒造・酒
左:ここで醸造された地ビール『多摩の恵』
右:11月から期間限定販売される『しぼりたて かめぐち』は現地でしか買えず、売店で量り売りをしている。
以前は蔵人しか味わう事ができなかった火入れ前の搾りたて生酒。  


 文久3年(1863)多摩川の対岸にある小川村(現:あきる野市)の森田酒造の蔵を借りて13代当主・源右衛門が造り酒屋を創業。
明治14年(1881)現在地に酒蔵を新築し、明治16年に全て引き移しました。
 石川源右衛門は上川原村の名主・指田七郎右衛門の次男『和吉』で、石川家に養子入りした人物。
同じく実弟・圭蔵も、福生村の田村家(田村酒造場1822創業)に婿入りしており、兄弟で酒造りに必要な水田や分水路の開拓を推進しました。
その後、和吉(石川源右衛門)は甥の千代蔵(圭蔵の子息、1849生)を養子に迎え入れ、明治6年に家督を相続させています。
 石川家は、明治21年からドイツ式ビールの醸造を開始し、「日本麦酒(旭マーク)石川醸造所」のラベルが貼られて日本麦酒醸造会社から販売されますが、上手くいかず明治23年に製造装置が売却されました。
しかし、多摩地域の鉄道とビールは深く繋がっていたようで、日本麦酒社長・桂二郎のドイツ留学仲間である三浦泰輔(甲武鉄道/京浜電鉄の社長)が大日本麦酒㈱取締役に就任。
甲武鉄道㈱や青梅鉄道㈱の取締役であった実兄・田村半十郎(圭蔵の長男)の関係で、石川彌八郎(千代蔵)も青梅鉄道㈱監査役に就任しています。
 石川酒造では平成10年(1998)から再びビール醸造も行われ、福生の地ビールとして味わえるようになりました。

【参考文献】
「熊川分水」福生市郷土資料室,高崎勇作 他 2002 福生市教育委員会
「第三回調査全国五拾万円以上資産家」1916 時事新報社
政治経済論叢13「甲武鉄道社長・三浦泰輔の生涯」関島久雄 著1964 国土社

【2016年11月 訪問】


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