2017.
12.24
Sun
千葉県市川にある赤煉瓦建物の保存に関するイベントです
国府台旧陸軍武器庫1
 この建物は旧陸軍工兵隊の武器庫であったもので、近年まで千葉県血清研究所が倉庫として使用していました。
血清研究所では有用な『LC16m8』等の各種ワクチンを開発していましたが、平成14年(2002)閉鎖。
千葉県衛生研究所が業務を引き継ぎますが、施設はそれ以降ほとんど使用されていません。 ※訪問記録⇒【国府台旧陸軍武器庫
年1回この建物が『赤レンガをいかす会』主催により公開されてきましたが、売却計画があるため公開は現在休止となっております。
残念ながら今回は見学できませんが、ルーテル市川教会(ヴォーリズ作品)が会場となり、煉瓦倉庫の歴史的価値や他の保存例などのお話が伺えます。
市川教会
※訪問記録⇒【日本福音ルーテル市川教会


赤レンガ・フォーラム2018
◆開催日:2018年1月26日(金)
 第1部(15:00~自由見学)教会堂見学
 第2部(18:30~20:50)フォーラム
◆会 場:日本福音 ルーテル市川教会(千葉県 市川市 市川4-1-5)
◆申込み:予約不要・参加費無料(募金のみ)
◆主催:赤レンガをいかす会  ※詳しくはコチラ⇒【赤レンガをいかす会


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2017.
12.17
Sun
建築年:大正13年(1924)、 大改修は平成14年(2002)完了
設 計:レーモンド建築設計事務所、 施工:清水組
所在地:東京都品川区荏原2-4-41
アクセス:東急.戸越銀座駅~徒歩約8分 or 都営地下鉄.戸越駅─徒歩約10分
TEL:03-3786-1011
  ※詳しくはコチラ⇒【星薬科大学
星薬科大学1
 F.L.ライトの下で帝国ホテルの詳細図やパースを担当したアントニン・レーモンド。 その影響が残る日本での初期作品です。
レーモンドの事務所に学校の概要書を手にした星 一が清水揚之助(清水組)らと来所。 基本設計が翌日の夕方に完成し、多少の質問をした程度で星が実施図を依頼。 構造計算無しで設計されましたが、建設中に起きた関東大震災では被害が無く、戦争や東日本大震災でも被災せずに現存しています。
関東大震災(1923)では、レーモンドが設計した他の建物(後藤邸・東京テニスクラブ等)も殆ど被害が無く、東京女子大学だけ暖房機と水槽が被災したとの事。 
この頃はレーモンドにとってRC造の実験期で、清水組の協力でRC打ち放し仕上げを試みていますが、部分的にしか成功せず、仕上げにモルタルとペイントが使われました。 やっと成功したのは、この後に完成したレーモンドの自邸(1924)でした。
星薬科大学・スロープ2
ホール内から玄関方向を見る
星薬科大学・スロープ1
2階出入口
星薬科大学・スロープ3
3階まで通じる圧巻のスロープ
星薬科大学・スロープ4
スロープ床の滑り止め加工(コンクリート)
星薬科大学・壁画1
大壁画『薬狩
昭和18年(1943.5.18)創立記念日に大壁画『薬狩・鹿茸狩』お披露目、 昭和31年(1956)・平成8年(1996)修復完了
星薬科大学・壁画2
大壁画『鹿茸狩
星薬科大学・講堂1
講堂ステージ
レーモンドは舞台にも詳しかったようだ。 NYで独立した時の初仕事は舞台装置で、さらに兵役中に知り合ったストラビンスキーとの縁で「村の結婚」も手掛けている。
星薬科大学・講堂2

星薬科大学・講堂4
座席は更新済み
星薬科大学・講堂7
出入口ドア
星薬科大学・講堂5
ライトの影響が残る装飾
星薬科大学・講堂8
講堂内部にもスロープが
星薬科大学・講堂3
ステージ下の内部
星薬科大学・講堂6
左:ホールの照明              右:舞台袖の螺旋階段


 星薬科大学は、星 一が星製薬㈱の工場内に夜間学校を設置したのが始まりです。
大正3年(1914)女性従業員のために設置され、家事裁縫などを教育。 大正5年に教育部(普通科/別科)として認可を受けます。
星製薬商業学校(1922~)になると特約店の子女向けに薬業教育を実施。 
創立10周年の大正13年(1924)に本館が完成し、11月14日に大講堂開堂式が行われると、ノーベル賞学者・ハーバー博士が講演しました。
昭和16年(1941)から星薬学専門学校になりますが、戦時中の昭和20年(1945.5.24)に寄宿舎・実験室などの木造校舎が焼失。
同年9月28日この本館が進駐軍に接収されると、工場内の仮校舎で授業を継続します。 
そして昭和24年(1949.7.15)進駐軍による校舎接収が解除されると、その翌年に星薬科大学が設立されました。
しかし、星 一が昭和26年(1951.1.19)滞在先のロサンゼルスで亡くなり、一時的に長男・親一(作家・星新一)が会社を継承するも既に経営破綻しており、翌年に大谷米太郎へ譲渡されました。
星薬科大学2
 星 一は、星喜三太(県会議員)の息子として明治6年(1873)福島で生まれ、平町の塾で英語を学びます。
まずは日本を知るため留学資金を使って古本を買い、それを売りながら西日本を旅します。 明治27年に渡米しますが、アメリカ在住の日本人に貸した金が戻らず、個人宅の使用人として働きながら学費を稼ぎます。 それでも学費が半分しか出せず、倍の年数を掛けてコロンビア大学卒業。
在学中に中央新聞社主・大岡育道を案内した関係で、随伴してパリ万国博覧会の通信員に。 日米週報や月刊Japan&Americaも発行しています。
帰国すると資料を熟読し、商売を始めるため街を観察。 金物・履物・製薬のうち、世界中に販売できる製薬業に決定。
数社の製薬会社を買収し事業を拡大、南伝馬町(京橋)に社屋と、大崎町(現:西五反田)や埼玉の蕨に工場を建設しました。
関東大震災で南伝馬町にあったRC造7F社屋が、床・柱に亀裂、木部焼失で使用不可能に。
大正14年に人類学者・小金井良精の次女・精と結婚、翌年に親一(作家・星新一)誕生。
戦後の星製薬工場は空襲被害が少なく再稼動でき、学校も木造施設は焼失したものの本館は無事でした。
その後、大崎の工場跡地は五反田TOCビルとなり、南伝馬町の社屋は中央生命の手に渡り、現在は京橋第一生命ビルディングが建っています。
借金王と言われた星 一は事務所を寝室にし、衆議院議員になっても愛宕下の長屋から自転車で通う程、仕事一筋の人生でした。

【参考文献】
「自伝アントニン レーモンド」1970 鹿島研究所出版会
建築文化173「打放しコンクリートを再考する 私はなぜ打放しをやるか」A・レーモンド著 1961
「職工ノ福利増進施設概要. 大正12年7月1日現在」 東京府 1924
「大正大震災震害及火害之研究」 営繕管財局 1925 洪洋社
「星薬科大学100周年記念写真集」2011 星薬科大学
処世実話全集.第10巻「私の歩いてきた道」星 一 著 1938 金星堂

【2016年11月 訪問】


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2017.
12.03
Sun

建築年:大聖堂は昭和30年(1955.10)竣工、昭和31年(1956.5)献堂式
設 計:レーモンド建築設計事務所、 施工:白石建設㈱
所在地:東京都品川区上大崎4-6-22
TEL:03-3491-5461
アクセス:目黒駅~徒歩約3分
  ※詳しくはこちら⇒【カトリック目黒教会
目黒教会1
 聖アンセルモ目黒教会は、ドイツ系修道院のベネディクト会が昭和22年(1947.11.30)創設したもので、現在は『カトリック目黒教会』となっています
最低500人収容の聖堂と幼稚園などの設計を依頼されたアントニン・レーモンドは、幾つかの模型を作りながら2年かけて研究しました。
目黒教会・天井
大聖堂の天井と壁(RC打ち放し仕上げ)
仮枠を一定の形に建て込むのは非常に困難であったという。 一部に鋼製仮枠を試みて表面が滑らかで石の様に固く仕上げた
目黒教会・祭壇
天蓋(コンクリート+金箔仕上げ),十字架(鉄+七宝),祭壇(仙台石磨き仕上げ)
デザインはアントニン・レーモンド
目黒教会・聖櫃
左:聖櫃, 右:燭台と朗読台  デザインはアントニン・レーモンド
目黒教会・信者席
信者席
目黒教会・パイプオルガン
2階に合唱隊席とパイプオルガン
目黒教会・洗礼所
洗礼所(受洗盤はコンクリート)
ノエミのデザインによるステンドグラスは当初、資金不足のため着色プラスチックであったが長持ちしなかった
目黒教会・床
洗礼所の床
目黒教会・建具
左:スチールサッシの一部は開閉可能、 RC壁の一部ステイン塗仕上げ
右:玄関扉の金物
目黒教会・彫刻1
壁面彫刻『道行きの祈り』(鍛鉄+錆鉄):デザインはノエミ・レーモンド(夫人/デザイナー)
目黒教会・彫刻2

目黒教会5
大聖堂外部(当初…外壁一部:ステイン塗、屋根:アスファルト防水+アルミ箔)
裏手に修道院や司祭館などがある
目黒教会・屋外通路
大聖堂から別棟へと続く屋外通路
目黒教会・CTIC3
当初は幼稚園と信徒会館であったが、現在はカトリック東京国際センター(CTIC)として外国人のサポート活動を行っている。
目黒教会・CTIC1
CTIC 玄関
目黒教会・CTIC2
CTIC 階段
目黒教会6
施工した白石建設㈱は、アメリカ大使館宿舎を担当した技師が創業した会社。
その仕事ぶりが評価され、独立後もレーモンドから多くの仕事を任せられた。


 創立者のヒルデブランド・ヤイゼル神父(修道院長/主任司祭)はスイスで生まれました。
昭和6年(1931)ベネディクト会(独)の修道院を建てるために来日。 当初は神奈川県茅ヶ崎に木造の殿ヶ丘修道院を創設しましたが、昭和15年(1940)閉鎖されて神学校の教授となります。
 開戦後に拘束を免れたヒルデブランド神父は、昭和17(1942)からスイス大使館員として関東~東・北日本の捕虜収容所や民間人拘留所へ訪問し、秘密裏に報告。 収容所では残酷な仕打ちはなく、有償労働しない士官もいましたが、食事は徐々に貧しくなったようです。
 昭和20年(1945.4)日本政府の重臣による極秘会議に参加。 天皇に真相を話してもらうようローマ教皇からお願いするという列席者の提案は却下され、それ以降は監視も厳しくなったとの事。
 終戦後はマッカーサーから勲章をもらい、従軍司祭となります。 半年間アメリカで講演した際に受け取ったパーカー将軍(少将?)の手紙を持ち、帰国後の昭和22年(1947.4.9)マッカーサーと面談。 アメリカ各地に設置された軍用郵便局経由で民間人から多額の献金を受けます。
 さらにクリスチャンであった片山首相が、軍需工場跡地を聖堂建設地として提案。 日本政府/進駐軍から難癖を付けられますが、マッカーサーの一声で決定しました。(旧工場を教会としてしばらく使用)
 後年、二人はニューヨークのホテルで再会。 マッカーサーは中国・ロシアの事に言及し、アメリカの現状及び将来について大きな憂慮を示していたそうです。

【参考文献】
「自伝アントニン・レーモンド」2007 鹿島出版会
建築文化117「聖アンセルモ目黒教会」 1956 彰国社
「ヒルデブランド神父自伝: 在日50年の回顧」1989 中央出版社

【2016年11月 訪問】


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