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2019.
09.09
Mon
建築年:明治21年(1888)竣工、改装・修復は何度かあり
設 計:山添喜三郎、  棟 梁:三島秀之助・佐藤朝吉
所在地:宮城県登米市登米町寺池桜小路6
アクセス:東日本急行.高速乗合バス『仙台駅』→『とよま明治村』下車スグ
開 館:9:00~16:30(年末年始は休館)
見学料:有料(6施設共通券有り)
TEL:0220-52-2496
 ※詳しくはコチラ⇒【教育資料館
旧登米小学校1
 昭和40年代に小学校が移転してから仮校舎として小中学校や高校が一時使用していた建物で、現在は『教育資料館』として公開。
設計者の山添喜三郎はウィーン万博.日本館の大工を務めた人物で、近くにある登米警察署も設計しています。→【旧 登米警察署
 山添は全ての木材や瓦の検品を行い、多くの不合格品を出した業者が夜逃げしたほど仕事に厳しかったと云われています。
棟札にある2名の棟梁のうち、三島秀之助は気仙沼今泉村出身で、佐藤朝吉は登米生まれ(1852)の地元の大工でした。
川に近い地盤のため基礎工事は地中まで木杭を打ち、割栗石を敷き詰め、石灰・砂利・粘土を突き固めて礎石を乗せています。
その工事のおかげか昭和53年の宮城県沖地震では壁の亀裂や剥離、桟瓦がずれる程度。
昭和末期に行われた保存工事の調査で、束石や狭間石、正面玄関の石階段は多少の沈下が見られたものの、柱の礎石はあまり沈下がなかったとの事。
しかし東日本大震災では一部損壊となっています。
改装工事は以前にも何度か行われており、大正末期には附属棟が増築されて2F中央バルコニ-床の金属板の張り替え。
昭和30年代には外階段をコンクリートに変更して、漆喰壁がカゼインやプラスターで補修されました。
文化財としての保存修復工事は➀昭和62年(1987)~平成元年(1989)、②平成24年(2012)~平成25年(2013) の2回、実施されています。
旧登米小学校2
六方と呼ばれた生徒用玄関は建物の左右に有り、当初は男女別であった
旧登米小学校・玄関天井
六方の屋根裏
旧登米小学校・土間
土間は割栗石の上に石灰・砂利・粘土を突き固め、稲井石の上に土台をのせている
旧登米小学校5

旧登米小学校・教室1
大正時代の再現教室
旧登米小学校・教室2
昭和時代の再現教室
旧登米小学校・和室
2F裁縫室兼講堂(昭和18年頃の様子に復元)
可動式の板壁で仕切られた教室2室を昭和17~18年に床の間と畳がある教室に改装したが、昭和30年代に普通教室に戻された。
昭和末期の修復工事で板壁を外し、床・違い棚・畳を復活。
旧登米小学校・欄間
板壁で隠されていた欄間
旧登米小学校・校長室
校長室
旧登米小学校・バルコニー
2F中央バルコニ-床は当初から黒亜鉛板敷き
旧登米小学校・装飾
同じ意匠の柱頭飾り(左:登米高等尋常小学校,右:登米警察署)
旧登米小学校6
左:窓の敷居の水抜き穴,      右:傘立て
敷居の水抜き亜鉛管は紛失または破損のため昭和末期の修復工事で全て交換済
旧登米小学校4

 この小学校が明治21年に建設された後、小学校の建設に関する全国区の条例が制定されました。
これは明治23年の小学校令(勅令第215号)第19条の細則である、小学校設備準則(文部省令第2号)として明治24年4月に公布されたものですが、同年11月に改正されています。
既に明治6年には奨励する学校建築として「文部省制定小学校建設図」で凹凸+-口工の形で玄関3ヶ所、片廊下or中廊下という平面図が提唱されていました。
 さらに文部省は明治24年に小学校設備準則を決めたのですが、建設費が掛かり過ぎると反対意見が多く出たため、生徒数に対する最低床面積も無くし、9条→4条と項目を減らして改正しました。
この文部省令を基に各県が「小学校設備規則」を定め、地域の条件に合わせたようですが、その当時は資産家らの寄付により建設された学校が多く、地域によりバラツキがありました。
宮城県では『学校建築心得(明治16年)』にて、四間×五間の長方形で生徒30人迄の教室を推進していました。
 登米高等尋常小学校は当時の理想とする学校建築であったようで、明治20年に文部省視学官の中川元が訪問した記録があり、森文部大臣の東北巡視先として推薦したようです。
当時の奥州日日新聞によると、小学校は10月末か11月初旬に完成で、建築中の登米警察署と合同落成式を行う予定でしたが、文部大臣が来るとの事で10月9日に急きょ落成式が行われました。
しかし暴風雨のため文部大臣は登米まで来れなかったとあり、午後2時に始まった落成式で山添が落成報告書を朗読し、蒔き餅や男子高等生の柔軟体操が行われた後、2階で招待客に日本料理が饗応されたと書かれています。
旧登米小学校3
【参考文献】
「重要文化財 旧登米高等尋常小学校校舎保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会 1990
「登米郡史.上」登米郡1923

【2018年7月 訪問】
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2019.
08.25
Sun
建築年:大正13年(1924)年、洋館は昭和初期
所在地:宮城県塩竈市宮町5-5(鹽竈神社東参道=裏坂の途中)
アクセス:JR本塩釜駅~徒歩(階段あり)約580m
開 館:10:00~15:30(休館日:火~木ほか)
見学料:無 料
TEL:
022-364-0686  ※詳しくはコチラ⇒【亀井邸
亀井邸
この建物は三陸沿岸の総代理店であった亀井商店(現:カメイ株式会社)創業者・亀井文平の住まいとして建てられました。
亀井邸・玄関タイル
玄関タイル
亀井邸・玄関
上:玄関の天井  下:式台の傷補修なのか埋木象嵌されている
亀井邸・座敷
座敷
亀井邸・離れ1
奥座敷
亀井邸・洋館
新館と呼ばれていた洋館(寝室)
亀井邸・金庫
左:洋館(寝室)金庫          右:奥座敷の金庫
亀井邸・内玄関
洋館側にある内玄関
亀井邸・手洗い
廊下の途中に風呂を増築(左の写真は手洗い場)
亀井邸・2F座敷
2F座敷
亀井邸・2F床の間
2F座敷の床の間(違い棚の海老束がくり抜いてある)
亀井邸・2F次の間
2F次の間
亀井邸・2F小部屋
2F書生部屋:得意先の子を書生としていたので良い部屋である
亀井邸・引手
左:亀井邸の書斎部屋        右:旧 斎藤彦太郎邸(新潟)
新潟の孝順寺に移築された旧斎藤彦太郎(本名:実寿)邸と同じ意匠のコウモリの引手が。
コウモリ印の日本石油 三陸沿岸.総代理店であった亀井商店は、山北こうもり会(三陸コーモリ商友会)を設立しており、2階で接待したのだろう。
また、安田村長・新潟電気㈱社長であった斎藤彦太郎も、新潟で創業した日本石油と関係があったのかもしれない。
亀井邸・欄間
欄間(上:2F座敷、中と下:1F座敷)
亀井邸・階段
左右に分かれた階段の下はさらに二手に分かれ、鉢合わせせずに行き先を変えられる。
料理は台所のリフトで運んだという。
亀井邸・丸窓


 亀井文平は明治16年(1883.4.23)岩手県伊手村で麻糸の漁網を作っていた四郎治の長男として誕生。
先祖は江戸時代に濁り酒を製造販売したと云われ、家印のヤマキタが後の亀井商店の社章に使用されました。(現在は違うマーク)
文平は仙台で髪油・蝋燭を扱う高野商店の奉公を経て独立し、明治36年に鹽竈神社の門前町で亀井商店を開いて、油・砂糖・小麦・石鹸販売や蝋燭製造を行いました。 その頃の店は嫁のヤスに任せて、自分は外廻りを担当していたとの事。
そして両親と妹を呼び寄せ、父は材木店を始めています。
文平は日本石油に何度も交渉し、明治41年に三陸沿岸の総代理店契約を結ぶと、それ以降もビール・焼酎やサイダー等の代理販売店となります。
娘のタマが塩竈生まれの土井運蔵と結婚すると、大正13年に新築したこの建物に転居。
昭和12年(1937.3.18)熱海の別荘で他界しました。
 それ以降も亀井商店(現:カメイ株式会社)は事業を拡げ、セメントや車などを販売する他、昭和57年にカメイスポーツ(現:カメイ・プロアクト株式会社)を創業しています。 ※詳しくはコチラ⇒【カメイ㈱
 この建物は2011年3月の東日本大震災では被害が少なく5月1日から公開されましたが、9月21日に台風が直撃し、その二日後に和館/洋館の境にある洋間の壁の亀裂部分が剥落。 洋館の見学を中止して修復を始め、2012年4月に再開されました。
亀井邸・洋館屋根
【参考文献】
「風調雨順 : 亀井商店の八十年」亀井商店社史編纂委員会 1984
東北開発研究 ’93秋季「東北開発120年-人物篇(VIII) 亀井文平」岩本由輝(東北学院大学教授)著
「宮城県の近代和風建築」宮城県教育委員会 2016

【2018年7月 訪問】

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2019.
07.30
Tue
建築年:公民館は昭和26年(1951)落成、講堂は昭和32年(1957)竣工、平成26年(2014)改修完了
構 造:公民館は混合造(RC/木造)、講堂は木造(木骨編板構造)
講堂設計:松本治男、木骨編板構造考案:都築好郎
所在地:宮城県塩竈市本町8−1
開 館:公民館9:00~21:00、杉村惇美術館10:00~17:00
休 館:月曜日(休日の場合その翌日、GW等の長期連休の場合は除く)・年末年始
アクセス:JR本塩釜駅~約800m(登坂あり)
TEL:022-362-2555(塩竈市杉村惇美術館)
  ※詳しくはコチラ⇒【美術館HP
旧塩竈市公民館・講堂1
 この美しい木造の建物は、近年に改修されて塩竈市公民館本町分室の講堂として使用されています。
さらに公民館2階には杉村惇美術館も開館しました。
当初は塩竈市立第三中学校の体育館として設計されたようですが、公民館に増築される形で実現しました。
旧塩竈市公民館1
公民館入口
旧塩竈市公民館・玄関
玄関ホール
旧塩竈市公民館・談話室
玄関ホール脇にある談話室
旧塩竈市公民館7
左:この堅牢な鉄扉は何だろうか            右:玄関ホールの照明
旧塩竈市公民館・日本間
日本間
旧塩竈市公民館・廊下
講堂へ続く廊下
旧塩竈市公民館・講堂3
講 堂:改修前は薄緑色の壁に灰色の天井であったが、白色に塗り替えられた。
木骨編板(集成材)の構造が見えるようになっている。
旧塩竈市公民館・講堂2
ステージの天井部
旧塩竈市公民館・講堂4
左:ステージ袖                  右:ステージ下の通路
旧塩竈市公民館5

旧塩竈市公民館3

旧塩竈市公民館2

旧塩竈市公民館4

旧塩竈市公民館・外壁
1F外壁:塩竈石貼
旧塩竈市公民館6

 塩竈市公民館が建設されたのは、GHQ民生局が推進した民主主義に基づく市民のための会合の場として、昭和25年(1950)社会教育部係長のヘンリー今岡中尉が強く要望した事に始まります。
第一小学校校舎を第一中学校図書館/特別教室として移築し、その跡地に市の予算で建設した公民館が昭和25年(1950.12)竣工、翌年に落成(1951.1.6)。
公民館の設計者の記載はないですが、文献によると施工は鎌田工務店となっています。
さらにこの講堂が昭和32年(1957.7)増築され、昭和40年代に公民館内部を改造したようです。
 展示されていた編板特許の書類(実用新案登録出願1951.2.21、公告1952.2.13)では考案者:都築市三(沼津市)の記載があり、講堂の図面には、設計者:松本治男(沼津市)、発明者:都築好郎となっています。
編板建築法の考案者と設計者は沼津にて仕事をしていたようですが、なぜか特許と図面の考案者の名前が違っています。
昭和3年の文献を調べてみると、都築市三は東京府馬込に住み、鉄道省工務局建築課に勤務していた事が分かりましたが、好郎は息子でしょうか?
松本治男(1級建築士)の名は出てきませんが、図面を観た感じでは数多くの仕事をしていたようで、どの様な仕事をしていたのか気になります。
旧塩竈市公民館・講堂図面
展示されていた矩計図
旧塩竈市公民館・講堂構造
左:特許の申請図(考案者:都築市三) 
右:号外として実施された編板は違う形になっている(発明者:都築好郎)

【参考文献】
市史6(資料編2)「市政の思い出」桜井辰治(当時の市長)1985
昭和3年・建築年鑑(建築世界社)

【2018年7月 訪問】

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2019.
06.30
Sun
建築年:明治初期
所在地:宮城県塩竈市本町3-9
アクセス:JR本塩釜駅~約500m
開 館: 土日12:00~15:00(その他は予約制10名以上) 臨時休館・貸切あり
入館料:有料
TEL:022-361-0685(又は022-364-0686 亀井邸)
 ※詳しくはコチラ⇒【松亀園
旧えびや旅館
 塩竈港と塩竈神社の近くにある花街の歴史を残す旧ゑびや旅館は、1階がカフェ、2~3階が塩竈まちかど博物館(松亀園)として公開されています。
カフェはれま】 11時~17時(L.O)、定休日:水・木(臨時休業あり) TEL:090-4557-1671
旧えびや旅館・2F
2F大広間:幅広の天井板がスゴイ
旧えびや旅館・欄間
欄 間:フナクイムシに喰われた木材を使用しているものも(中央の画像)
旧えびや旅館・桜の間1
3階「梅の間
旧えびや旅館・桜の間2
桜の間の天井画は2018年4月に復元完成
旧えびや旅館・桜の間3
象嵌(上:桜の間、下左:梅の間)
下右:桜の間の天井には作者の名が残る(63歳の時に描いた?)
旧えびや旅館・竹の間
3階「竹の間
旧えびや旅館・松の間
3階「松の間」松と亀の彫刻:松の枝の部分はサルノコシカケだろうか?
旧えびや旅館・装飾


 江戸時代から海老屋亀之助が貸遊女屋を経営し、その子孫が明治初期にこの建物を完成させたようで、梁には建て主「海老藤蔵」の墨書きが残ります。
明治9年(1876)天皇巡幸の際には大隈重信らが宿泊。
明治20年に鉄道が開通すると海老屋旅館(えびや旅館/ YEBI HOTEL)は塩竈駅前に移転。
この建物は経理の日野友吉が受け継ぎ、日野旅館(日の本旅館)として料亭/貸座敷を営業。
昭和10年には市川家(洋品店)の所有となり、松田家が借り受けて松亀園茶舗を開店します。
昭和30年に買い取った松田家は、東側を賃貸(パチンコ店・時計店・写真屋など)して、平成になるまで2~3階を店子が住居として使用。
それ以降、松田家の店舗兼住居となっていた建物は、東日本大震災の津波で床下浸水し解体の危機が迫りますが、NPOみなとしほがま主催で学術調査とシンポジウムが開催され、募金活動を開始します。
3回の見学会を通して多くの寄付が集まり、NPOみなとしほがまが土地建物を購入。
市内の各団体・組織との協同で2012年4月~お掃除会20回ほど行い、補助金も受けて修復開始2015年3月着工、10月に完了しました。
史乃 姐さん
 訪問時は2階が貸切りでしたが、千賀乃屋演舞会の当日券があるとの事で拝見する事に。
塩釜芸妓の文化を残そうとする千賀乃屋の皆さんが、塩釜甚句・塩釜ソーランなど披露。  ※詳しくはコチラ⇒【千賀乃屋
史乃さんの踊りを見て、市丸もこの様な艶気があったのだろうな…と感じます。
終わった後に皆さんに話を伺うと、塩釜みなと祭りが翌日に開催されるというので、また塩釜に来る事にしました。

【参考文献】
市民が作る塩竈歴史案内.第3集「ゑびやの歴史」高橋幸三郎 著 2017
「塩竈市史. 第1」塩竈市史編纂委員会 1955

【2018年7月 訪問】

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2019.
06.02
Sun
所在地:宮城県登米市登米町寺池中町3
建築年:明治22年(1889)落成
設 計:山添喜三郎、  棟 梁:菅原順平・及川養治・金本東八
アクセス:県庁市役所前or仙台駅前(東日本急行・高速乗合バス)→とよま明治村バス停下車500~600m
開 館:9:00~16:30(12/28~1/4休館)
見学料:有料(6施設共通券有り)
TEL:0220-52-2595 
  ※詳しくはコチラ⇒【警察資料館
警察資料館
 現在、警察資料館となっているこの建物は、明治21年に分署から昇格した登米警察署として、明治22年(1889)落成。
設計はウイーン万博(1873)日本館の大工の一人・山添喜三郎で、近くにある登米高等尋常小学校→(現:教育資料館)も設計しています。
昭和43年(1968)新庁舎が完成して登米警察署が移転すると、登米町商工会が昭和61年まで使用。
昭和62年(1987) 復元工事が終了し、「警察資料館」として一般公開されました。
警察資料館1F
中に入ると古いパトカーや白バイが!
警察資料館・パトカー
パトカーの運転席に実際に座る事が出来る
警察資料館・白バイ

警察資料館・1F天井
天井の漆喰彫刻
警察資料館・署長室
署長室
警察資料館・調所
調所(しらべしょ):当初は奉行所の様に容疑者を下に座らせ、取り調べた。
警察資料館・留置場1
鉄格子は昭和49年に解体された大河原署(1886-1963)の物で、宮城県警察学校に保管されていた。
警察資料館・留置場
留置場:復元工事中に昭和30年代まで使用した留置場の基礎が発見され、雑居房として再現。
隅の穴は便所(当初の物)で瓶が埋まっている。
警察資料館・1F展示室
火消しの展示室:昭和23年まで警察と消防は同じ管轄であり、外にある火の見櫓は大正14年完成。
警察資料館・階段
歴史を感じる擦り減った階段
条例
明治初頭の軽犯罪を描いた浮世絵:明治6年に布告された違式詿違条例であり、刺青・家の近くで花火・軒外に木や石等を積む・理由もなく髪を切る婦人・窓の格子から顔を出して通行人をからかう・そそっかしくて人に石粒を投げる等…とても面白い。
警察資料館・丸
偶然にもベランダと便所の穴が同じデザインに見える
玄昌石の館
隣りにある『玄昌石の館』 開館9:00~17:00(12/28~1/4休館)、無料
とよま玄昌石㈱の資料館であり、現在の会社は㈱とよま振興公社として近隣の資料館も管理している。
玄昌石
展示パネルによると、明治35年に登米地区でスレート(玄昌石)の発掘を開始して以降、スレート工業が一時隆盛となり、昭和27年と平成2年の東京駅改修でドームの屋根材、(昭和)東京オリンピック競技場の床材として大量納品したという。
警察資料館2


 設計者の山添喜三郎は、天保14年(1843)越後の角海浜村に生まれ、舟大工の奉公を経て、東京の大工・松尾伊兵衛に弟子入りします。
松尾がウィーン万博.日本館の棟梁に選ばれると一緒に渡航。
明治6年1月に横浜を出発し、3月にウイーンに到着。 その現場を担当したのは…
〔建築施工〕松尾棟梁・山添喜三郎・近藤半次郎・中野留吉・関口善助
〔遊園築造〕山添喜三郎・内山平石衛門・近藤半四郎
建設中に視察に訪れたオーストリア皇帝夫妻が、鉋屑を持ち帰ったというエピソードもあります。
万博が閉幕してロンドンの会社に買い取られた日本館一式は、松尾と山添らが移築して新たに土蔵も建設しています。
 日本に帰国すると勧業寮に雇われ、佐々木長淳の下に内藤新宿試験場内の製糸所(1876竣工)、群馬の新町紡績所(屑糸紡績所.1877竣工)の実施図を担当し、愛知の第一錦糸紡績所(1881)を監督。
明治15年に農商務省工務局を辞任し、宮城紡績会社の紡績所設計/工事監督を経て、宮城県に雇われ、登米尋常小学校・登米警察署・尋常中学校・鐘景閣の設計の他に、東浜街道の水界隧道(1886)・広瀬川の澱橋(1889)等を監督。
晩年は松島公園計画として五大堂・観覧亭の修繕、松島パークホテル新築(Jan Letzel設計)を担当。
75歳で宮城県技師/高等管7等となり翌年に退任。
大正12年81歳で他界して仙台の栄明寺に葬られました。

【参考文献】
科学朝日498号「海を渡った大工の棟梁 山添喜三郎」藤森照信 著 1982
「山添喜三郎の生涯と業績」温井眞一 著 2014 よみがえれ!新町紡績所の会

【2018年7月 訪問】
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