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2019.
06.30
Sun
建築年:明治初期
所在地:宮城県塩竈市本町3-9
アクセス:JR本塩釜駅~約500m
開 館: 土日12:00~15:00(その他は予約制10名以上) 臨時休館・貸切あり
入館料:有料
TEL:022-361-0685(又は022-364-0686 亀井邸)
 ※詳しくはコチラ⇒【松亀園
旧えびや旅館
 塩竈港と塩竈神社の近くにある花街の歴史を残す旧ゑびや旅館は、1階がカフェ、2~3階が塩竈まちかど博物館(松亀園)として公開されています。
カフェはれま】 11時~17時(L.O)、定休日:水・木(臨時休業あり) TEL:090-4557-1671
旧えびや旅館・2F
2F大広間:幅広の天井板がスゴイ
旧えびや旅館・欄間
欄 間:フナクイムシに喰われた木材を使用しているものも(中央の画像)
旧えびや旅館・桜の間1
3階「桜の間
旧えびや旅館・桜の間2
桜の間の天井画は2018年4月に復元完成
旧えびや旅館・桜の間3
天井には作者の名が残る(63歳の時に描いた?)
旧えびや旅館・竹の間
3階「竹の間
旧えびや旅館・松の間
3階「松の間」松と亀の彫刻:松の枝の部分はサルノコシカケだろうか?
旧えびや旅館・装飾


 江戸時代から海老屋亀之助が貸遊女屋を経営し、その子孫が明治初期にこの建物を完成させたようで、梁には建て主「海老藤蔵」の墨書きが残ります。
明治9年(1876)天皇巡幸の際には大隈重信らが宿泊。
明治20年に鉄道が開通すると海老屋旅館(えびや旅館/ YEBI HOTEL)は塩竈駅前に移転。
この建物は経理の日野友吉が受け継ぎ、日野旅館(日の本旅館)として料亭/貸座敷を営業。
昭和10年には市川家(洋品店)の所有となり、松田家が借り受けて松亀園茶舗を開店します。
昭和30年に買い取った松田家は、東側を賃貸(パチンコ店・時計店・写真屋など)して、平成になるまで2~3階を店子が住居として使用。
それ以降、松田家の店舗兼住居となっていた建物は、東日本大震災の津波で床下浸水し解体の危機が迫りますが、NPOみなとしほがま主催で学術調査とシンポジウムが開催され、募金活動を開始します。
3回の見学会を通して多くの寄付が集まり、NPOみなとしほがまが土地建物を購入。
市内の各団体・組織との協同で2012年4月~お掃除会20回ほど行い、補助金も受けて修復開始2015年3月着工、10月に完了しました。
史乃 姐さん
 訪問時は2階が貸切りでしたが、千賀乃屋演舞会の当日券があるとの事で拝見する事に。
塩釜芸妓の文化を残そうとする千賀乃屋の皆さんが、塩釜甚句・塩釜ソーランなど披露。  ※詳しくはコチラ⇒【千賀乃屋
史乃さんの踊りを見て、市丸もこの様な艶気があったのだろうな…と感じます。
終わった後に皆さんに話を伺うと、塩釜みなと祭りが翌日に開催されるというので、また塩釜に来る事にしました。

【参考文献】
市民が作る塩竈歴史案内.第3集「ゑびやの歴史」高橋幸三郎 著 2017
「塩竈市史. 第1」塩竈市史編纂委員会 1955

【2018年7月 訪問】

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2019.
06.02
Sun
所在地:宮城県登米市登米町寺池中町3
建築年:明治22年(1889)落成
設 計:山添喜三郎、  棟 梁:菅原順平・及川養治・金本東八
アクセス:県庁市役所前or仙台駅前(東日本急行・高速乗合バス)→とよま明治村バス停下車500~600m
開 館:9:00~16:30(12/28~1/4休館)
見学料:有料(6施設共通券有り)
TEL:0220-52-2595 
  ※詳しくはコチラ⇒【警察資料館
警察資料館
 現在、警察資料館となっているこの建物は、明治21年に分署から昇格した登米警察署として、明治22年(1889)落成。
設計はウイーン万博(1873)日本館の大工の一人・山添喜三郎で、近くにある登米高等尋常小学校(現:教育資料館)も設計しています。
昭和43年(1968)新庁舎が完成して登米警察署が移転すると、登米町商工会が昭和61年まで使用。
昭和62年(1987) 復元工事が終了し、「警察資料館」として一般公開されました。
警察資料館1F
中に入ると古いパトカーや白バイが!
警察資料館・パトカー
パトカーの運転席に実際に座る事が出来る
警察資料館・白バイ

警察資料館・1F天井
天井の漆喰彫刻
警察資料館・署長室
署長室
警察資料館・調所
調所(しらべしょ):当初は奉行所の様に容疑者を下に座らせ、取り調べた。
警察資料館・留置場1
鉄格子は昭和49年に解体された大河原署(1886-1963)の物で、宮城県警察学校に保管されていた。
警察資料館・留置場
留置場:復元工事中に昭和30年代まで使用した留置場の基礎が発見され、雑居房として再現。
隅の穴は便所(当初の物)で瓶が埋まっている。
警察資料館・1F展示室
火消しの展示室:昭和23年まで警察と消防は同じ管轄であり、外にある火の見櫓は大正14年完成。
警察資料館・階段
歴史を感じる擦り減った階段
条例
明治初頭の軽犯罪を描いた浮世絵:明治6年に布告された違式詿違条例であり、刺青・家の近くで花火・軒外に木や石等を積む・理由もなく髪を切る婦人・窓の格子から顔を出して通行人をからかう・そそっかしくて人に石粒を投げる等…とても面白い。
警察資料館・丸
偶然にもベランダと便所の穴が同じデザインに見える
玄昌石の館
隣りにある『玄昌石の館』 開館9:00~17:00(12/28~1/4休館)、無料
とよま玄昌石㈱の資料館であり、現在の会社は㈱とよま振興公社として近隣の資料館も管理している。
玄昌石
展示パネルによると、明治35年に登米地区でスレート(玄昌石)の発掘を開始して以降、スレート工業が一時隆盛となり、昭和27年と平成2年の東京駅改修でドームの屋根材、(昭和)東京オリンピック競技場の床材として大量納品したという。
警察資料館2


 設計者の山添喜三郎は、天保14年(1843)越後の角海浜村に生まれ、舟大工の奉公を経て、東京の大工・松尾伊兵衛に弟子入りします。
松尾がウィーン万博.日本館の棟梁に選ばれると一緒に渡航。
明治6年1月に横浜を出発し、3月にウイーンに到着。 その現場を担当したのは…
〔建築施工〕松尾棟梁・山添喜三郎・近藤半次郎・中野留吉・関口善助
〔遊園築造〕山添喜三郎・内山平石衛門・近藤半四郎
建設中に視察に訪れたオーストリア皇帝夫妻が、鉋屑を持ち帰ったというエピソードもあります。
万博が閉幕してロンドンの会社に買い取られた日本館一式は、松尾と山添らが移築して新たに土蔵も建設しています。
 日本に帰国すると勧業寮に雇われ、佐々木長淳の下に内藤新宿試験場内の製糸所(1876竣工)、群馬の新町紡績所(屑糸紡績所.1877竣工)の実施図を担当し、愛知の第一錦糸紡績所(1881)を監督。
明治15年に農商務省工務局を辞任し、宮城紡績会社の紡績所設計/工事監督を経て、宮城県に雇われ、登米尋常小学校・登米警察署・尋常中学校・鐘景閣の設計の他に、東浜街道の水界隧道(1886)・広瀬川の澱橋(1889)等を監督。
晩年は松島公園計画として五大堂・観覧亭の修繕、松島パークホテル新築(Jan Letzel設計)を担当。
75歳で宮城県技師/高等管7等となり翌年に退任。
大正12年81歳で他界して仙台の栄明寺に葬られました。

【参考文献】
科学朝日498号「海を渡った大工の棟梁 山添喜三郎」藤森照信 著 1982
「山添喜三郎の生涯と業績」温井眞一 著 2014 よみがえれ!新町紡績所の会

【2018年7月 訪問】
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2019.
03.17
Sun
所在地:宮城県登米市南方町本郷大嶽18番地
拝観:建物内部は通常非公開
TEL:0220-58-3572
  ※詳しくはコチラ⇒【大嶽山興福寺
興福寺
 興福寺に着くと何やら人で賑わっており、普段は中に入れないはずの観音堂と六角堂に人の姿が。
どうやら2017年(7.15~7.17)催された大嶽山の秘仏・十一面観音の三十三年一会ご開帳を記念して、2018年は建物のみ2日間だけ公開されたようで、ありがたく拝見させていただきました。
 この地は、平安時代に坂上田村麻呂が大嶽丸を退治し、7ヵ所に分葬して祀った観音堂の一つと伝わっています。
興廃・再建を繰り返し、江戸時代は伊達家の祈祷所・羽黒山の修験道場として栄えました。
明治の神仏分離令で一時は箟峯寺(天台宗)の末寺になりますが、昭和15年の宗教団体法を契機に観音堂は興福寺の本堂となりました。
興福寺・観音堂1
観音堂:何度か焼失しており由緒は不明。 伊達綱村の寄進により建設された堂宇も年月を経て再建(一部の材を再利用?)されており、明治21年に落成。 棟梁は小野新左衛門(脇棟梁は長作・勇之進など)
板壁には古代中国24人の親孝行物語の一部(観音堂6話、薬師堂2話)が彫刻されている。
昭和41年に屋根が葺き替えられた。
興福寺・観音堂2
観音堂内の参拝側
興福寺・観音堂3
観音堂の内陣側:2017年の三十三年一会ご開帳(7.15~7.17)を記念して、2018年は2日間(7.14~7.15)だけ特別開放され、普段入る事が出来ない場所が拝観できたので、許可を得て撮影。 こちらも六角堂と同じく天井画がある。
この2日間は大嶽山の秘仏・十一面観音のすぐそばで写経もできたようだ。
興福寺・薬師堂y
薬師堂:明治31年再建。 彫刻の色彩など近年に修復されたか。
興福寺・倉庫
書院の裏庭にある倉庫は独特の造り
興福寺・曼荼羅
檀家の高橋一男氏が隠居後に描いたという曼荼羅は、とても細密に描かれている。
ご子息の説明によると2枚の曼荼羅は92歳と94歳の時に完成させ、100歳で亡くなられたという。
他に描いた仏画は、十一面観音の三十三年一会ご開帳(2017.7.15~7.17)のポスターに採用された。
興福寺・洞窟
防空壕の様な穴の奥には観音様が祀られていた。
観音堂の下に大嶽丸の体の一部が埋められたとの伝承があり、その真下に彫られた穴はいつの時代のものだろう。

※興福寺その他の建物についてはコチラ⇒【六角堂

【参考文献】
「宮城県の近代和風建築」宮城県教育委員会 2016

【2018年7月 訪問】
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2019.
03.03
Sun
所在地:宮城県登米市南方町本郷大嶽18番地
拝観:建物内部は通常非公開
TEL:0220-58-3572
  ※詳しくはコチラ⇒【大嶽山 興福寺
興福寺
 旅をする際にいつも利用するJR東日本「えきねっと」(インターネット販売)
その会員数1千万人達成を記念して、2018年に会員限定「お先にトクだ値スペシャル」が発売されました。
管轄の新幹線一部列車が50%引との事ですぐに完売していましたが、運良く7月の「やまびこ号」の切符が取れて宮城へ。
更にJRレンタカーを借りて、以前から気になっていた登米にある六角堂へ行く事にしました。
興福寺・六角堂1
 興福寺に着くと何やら人で賑わっており、受付の誘導のまま書院へ。
その脇には六角堂が建ち、普段公開されていないはずの六角堂内部に人の姿が! 外から見るだけと思って来たので思わず興奮。
どうやら2017年(7.15~7.17)催された大嶽山の秘仏・十一面観音の三十三年一会ご開帳を記念して、2018年は建物のみ2日間だけ公開されたようで、ありがたく拝見させていただきました。
興福寺・書院2
中座敷:檀家や参拝客の休憩処として利用
興福寺・書院3
奥座敷:明治20年以前の建物と云われ、奥座敷・角座敷・納戸・中座敷・二階下・お歯黒部屋という間取りの客殿
興福寺・書院4
奥座敷の違い棚
興福寺・書院6
色ガラスと精巧な欄間細工という、洋と和の競演
模様入りの摺ガラスは、明治35年の高橋是清邸(江戸東京たてもの園)のガラス障子と同じ柄であり、当時流行していたもの。
興福寺・書院8
左:床の間と付け書院                
右:付け書院の裏手にある洋風窓の半円はフェイク
興福寺・書院10
建物裏手にある広縁の雨戸を開けると色ガラスに光が差す(手前に洋風窓)
興福寺・書院7
二階下:屋根裏の2階は物置か
興福寺・書院9
表側の戸袋は立派な造り。 当初は白く塗られていたのだろうか。
興福寺・六角堂2
左:客殿から六角堂への階段            右:和洋折衷のベランダ
外壁や木部などは近年になって修復されている
興福寺・六角堂建具
当初からある鎧戸
興福寺・六角堂3
六角堂:土蔵造り2階建て 何度か改修あり
明治16年起工、明治17年上棟。 観音堂の脇棟梁を務めた鈴木長作が棟梁となり施工した。(脇棟梁は内舘倉之助・金野忠三郎)
観音堂の工事中に本尊を安置していたが、観音堂落成後は持仏堂となり、1階は永代供養堂として使用。
屋根は木羽葺き→本瓦葺き→銅板葺き(大正12年)に改修されている。
1階床は昭和8年にコンクリートに改修され、外壁1階は漆喰→人造石洗出し仕上げになった。
さらに近年になって屋根の銅板葺き替え、木部の交換補修、外壁塗り替えが行われたようだ。
興福寺・六角堂6

興福寺・六角堂7
老夫婦が鶴と太陽を拝んでいる欄間彫刻
興福寺・六角堂4
仏像上の舟底天井は意外とシンプル
興福寺・六角堂5
左:柱に描かれた不思議な模様           右:伊達家の家紋が見える

※興福寺その他の建物についてはコチラ⇒【観音堂

【参考文献】
「宮城県の近代和風建築」宮城県教育委員会 2016

【2018年7月 訪問】
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