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2018.
09.17
Mon
建築年:明治26年(1893)
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢815(草軽交通駅舎旧軽井沢の裏手)
見 学:事前予約制 
TEL:0267-45-8695(軽井沢町 教育委員会 生涯学習課 文化振興係)
 
※下記の日は予約無しで見学可   詳しくはコチラ⇒【八田別荘
【2018夏の一般公開】2018.8.11㈯~9/30㈰の土休日,10時~15時迄(外からの見学)
八田別荘1
 明治から外国人の避暑地として人気があった軽井沢。 その影響を受けた日本人初の別荘が現地保存されています。
施主・八田裕二郎の自宅は東京小石川に在りましたが、霧積温泉で療養した際に軽井沢を訪れ、別荘で夏を過ごす外国人に感化されて土地を購入。
当時の軽井沢は電気や水道もなく、配電されたのは大正3年でしたが、八田別荘では昭和の初め頃までランプの生活をしていました。
海軍大佐であった八田裕二郎は、病気で休職した療養中に軽井沢を訪れ、後に別荘を建て軽井沢避暑団の理事も務めました。
若い頃の留学経験から語学も堪能で、外国人や地元住民から相談を受ける事もあったのでしょう。
海軍時代には有栖川宮威仁親王と同じく海軍特別調査局に在籍した時期もあったようです。
福井市出身で明治45年(1912)当選して衆議院議員になると、憲政擁護運動の県民大会を開くための会合を主催しています。
 この建物は近年まで八田家の別荘として残されていましたが、平成26年度に軽井沢町へ譲渡(建物は寄贈)されました。
八田別荘2
北側:勝手口と浴室・便所がある
八田別荘3
東側:右手の穴は井戸の跡で埋められている
八田別荘・土台
土台
八田別荘・サンルーム
玄関脇にあるサンルーム
八田別荘・1F座敷1
1F座敷
八田別荘・1F座敷2
座敷の奥に茶の間
八田別荘・茶の間
茶の間:円卓はちゃぶ台形式で脚をたためる
八田別荘・台所
左:台所                右:洗面所
八田別荘・浴室
左:浴室内の洗面台         右:近年まで使用したため改装されている
八田別荘・便所
便所も改装済み(左:便所前の棚、右:便所内部)
八田別荘・寝室
1F寝室
八田別荘・2F
2Fは一部屋のみだが、子や孫たちが雑魚寝する光景が思い浮かぶ
八田別荘・屋根
トタン屋根
 この別荘は自費で建設したものだが、勤務地の高等官以上の官舎は有料であったようで、玄関・取次の間・床の間付き室は公用として家賃の対象から除外すると海軍規則に書かれている。
ちなみに横須賀鎮守府司令長官舎と同じ敷地内にあった司令副官の官舎は、建坪40坪・平屋の日本家屋であった。
八田別荘・地蔵
明治43年(1910)の大洪水で流れ着いたお地蔵様

【参考文献】
時事評論1913.8「沈着綿密なる御性質」豫備八田海軍大佐 著
「福井市史 通史編 3 (近現代)」福井市 2004

【2017年9月 訪問】


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2018.
09.02
Sun
浅間山
 堀辰雄や立原道造らがこよなく愛した信濃追分。
江戸時代、北国街道と中仙道の合流地点として大いに栄えた追分宿があった。
信濃追分駅
◆信濃追分駅
国鉄/JRの駅であったが、新幹線開通により信越本線は無くなり、しなの鉄道の駅となった。
現在は無人駅だが、別冊.暮しの手帖『あたらさん(休刊中)』の編集室があり、信濃追分駅を管理している。
追分宿まで徒歩30分程あるので軽井沢町コミュニティバスに乗り、「追分昇進橋」か「追分公民館」バス停で降りると良いだろう。
浅間神社
浅間神社(あさまじんじゃ)
由緒書きによると、明治元年に浅間山が鳴動し、翌年に度々噴火。 心配した住民が県知事に上申し、勅祭が執り行われた。 
本殿は室町時代のものと云われるが、柱などは交換されており、天明8年(1788)の棟札が見受けられるとの事。
御影用水の上堰
御影用水の上堰:佐久平の地を潤す灌漑用として、江戸初期に掘削された。
御影用水の源流は2つあり、上堰は千ヶ滝、下堰は白糸の滝を水源としている。
浅間神社前の水流は上堰だが追分宿には下堰もあり、各旅籠はその水を引込み、台所や風呂場で使っていたようである。
堀辰雄邸
堀辰雄文学記念館:軽井沢町大字追分662  TEL:0267-45-2050
【開館】9~ 17:00 (入館は16:30迄) 【休館】水曜(祝日の場合は開館,7/15~10/31無休)・年末年始
昭和26年この地に新築し、亡くなるまで暮らした家が残る
堀辰雄邸・書斎
掛け軸「雨過山如洗」は川端康成から新築祝いとして贈られたもの
堀辰雄邸2
左:書庫を新築して蔵書の並べ方を妻に指示していたが、完成を見る事なく他界した
右:机や椅子は堀辰雄がデザインした
旧 油屋
旧 油屋(文化磁場油や):軽井沢町大字追分607
 江戸時代に脇本陣であった油屋は一二を争う大旅籠屋であった。 明治5年の芸娼妓解放令以降は旅館となり、堀辰雄・立原道造らが訪れる静かな宿となっていたが、昭和12年(1937)隣家の出火で類焼し、翌年に現在地へ移転し再建された。
近年になり旅館閉業で解体の危機が訪れたが、平成24年に「油やプロジェクト」が開始され、修復・改装して再生した。
【営業】4月下旬~11月初の11~17時(GW/夏季を除く火・水は定休日) TEL:0267-31-6511
※内部の様子はコチラ⇒【旧 油屋
追分コロニー
追分コロニー:軽井沢町大字追分612(旧 油屋の東隣)
江戸時代の旅籠『柳屋』が2006年に再建され、その建物を借りて古本屋を営むご夫婦は、旧油屋を再生した油やプロジェクトの創設者でもある。
【営業】12時~夕暮れ迄(4~10月:木曜~日曜日、11~12月:週末+祝日のみ) TEL:0267-46-8088
※詳しくはコチラ⇒【追分コロニー
追分コロニー裏
追分コロニーの裏にある貯水池:御影用水の上堰から水を引込み、旅籠『柳屋』で使ったのだろうか。
亀田屋1
旧 亀田屋:軽井沢町大字追分604-2
現在、亀田屋商店 と 布来籠工房ままごと屋(TEL:0267-45-4008)が営業
亀田屋2
旧 亀田屋は追分宿でよく見られた建物の特徴が残る
追分宿本陣跡
本陣跡(土屋市左衛門邸) ※建物は現存せず
江戸時代は参勤交代の大名が泊まり、明治11年に天皇の行在所にもなったが、明治26年の信越線開通後は宿場町が衰退していった。
追分宿本陣の裏門
本陣の裏門(天保2年)
御代田町の内堀邸に移築されていた裏門が平成17年に軽井沢町に寄贈され、堀辰雄文学記念館の前に移築された。
追分公民館
追分公民館
こちらが地元住民と別荘会の寄付により建設されたという、武 基雄が設計した追分区集会所か?
武 基雄(1910-2005)は早稲田大学卒業後、石本喜久治建築事務所に勤め、立原道造と同期であった。
看板の書は、追分宿三浦屋の子孫で女流書家・稲垣黄鶴によるもの。
津軽屋1
◆枡形の茶屋(茶屋本陣)旧 津軽屋 
江戸時代は旅人の休憩所であり、大勢の客がある時は土間の端に寄せておいた炉付き縁台2つを出した。
奥や2階に座敷があり、待合としても使われたというが、改築(建替え?)されている。
津軽屋2
津軽屋の漆喰看板
追分宿は西側だけ枡形(折れ曲がった街道)があり、石垣で押えた芝土手に木戸が設けられたと云われる。
追分宿の分去れ
追分宿の分去れ(左:中仙道,右:北国街道)
石造物群 …鳥獣供養塔.勢至菩薩(勢至立像),廻国塔(文字塔),勢至菩薩(勢至立像),子育地蔵(子育座像),伊勢講供養塔(常夜燈),子育地蔵台石(道標銘),歌碑(森羅亭萬象の歌碑),道標,道祖神
追分・子育地蔵
子育地蔵(子育座像)
上の台座には各地までの距離、下の台座には願主名、善光寺銅佛地蔵建立と刻まれているが、ぬれ仏と何か関係があるのだろうか? 

【参考文献】
「食売女」岩井伝重 著 1968
「軽井沢町・御代田町文化財マップ」長野県東信教育事務所 2015 

【2017年9月 訪問】


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2018.
08.19
Sun
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町追分607
店 舗:4月下旬~11月初の11~17時(GW/夏季を除く火・水は定休日)
宿 泊:4月下旬~10月末の木曜~日曜日(GW・夏季は月~水OK)大人のみ
TEL:0267-31-6511
アクセス:中軽井沢/信濃追分駅前~軽井沢町内循環バス「追分昇進橋」バス停~約200m
 
     ※詳しくはコチラ⇒【油やプロジェクト
旧 油屋
 小雨降る中仙道追分宿を歩き、堀辰雄文学記念館や追分宿郷土館を見学。 途中、古本屋に立ち寄り、最終チェックINの17:00間際に宿へ着く。
かつて『油屋』という旅館であった建物の1階にはギャラリーやShopがあり、もっと早くに到着すれば良かったと悔やみながら足早に見学。
この2階が素泊りの宿『油やSTAY』になっている。 テレビの無い部屋で、膝を掛布団に包み、建築の古本を開く。
暫らくするとお腹が空いてきたが、近くの蕎麦屋は夜の営業はしておらず、コンビニも無い。 車がないため途方に暮れる…
その様な宿泊客のために無人販売のカップラーメンやドリンクがちゃんと用意してあった。 
※近くに夜営業の飲食店やコンビニも出来たそうです(追記ご覧ください)
油や・1Fホール
 受付にあった地元産プルーンを買い求めようと下階に降りた際、支配人に話を伺う事が出来た。
この建物は『油やプロジェクト』が保存再生し、運営管理する『追分コロニー』は先程立ち寄った古本屋との事であった。
静かなその夜は、女性芸術家、観光ではなさそうな男性、コンサート帰りの演奏家らが泊まっていた。
夕食を持ち込み、古書を買い求め、夜を過ごす客人も多いのだろう。
但しシャワーしか無く、冬場はとても寒くなるので休業するとの事であった。
油や・玄関
玄 関 (一部に丸子にあった商家の古材が使われている)
油や・追分喫茶室
追分喫茶室(旧 応接間)
油や・ルーサイトギャラリー
以前ご紹介した東京・柳橋のルーサイトギャラリーの支店もあった
油や・古書
昭和レトロな雑誌も
油や・1F回廊
1F回廊:その他に中古レコード店やタイル屋がある
油や・スペース710
スペース710(旧 厨房)
油や・水廻り
左:スペース710でのワークショップ       右:浴場跡?もShopに
油や・2F
左:2F廊下                 右:客室ドアの彫刻
油や・客室1
客 室
油屋・浴衣
浴衣は旧油屋の物
油や・洗面所
男女別のトイレ・洗面・シャワー室があり安心 
油や・備品
コインランドリーも完備
油屋・資料室
資料室:右手にちらりと見える写真は立原道造
詩人として有名な立原道造(1914-1939)は建築家であり、東京帝国大学の建築学科を卒業後、石本喜久治建築事務所に務め、海軍家族病院や横浜日吉の秋元邸を担当した。
一高時代から堀辰雄の師事を受けており、文壇でも活躍。 毎夏、訪れるほど信濃追分を気に入り油屋を定宿としていたが、昭和12年の火災で逃げ遅れ、切った格子窓から助け出されたという。 病気により僅か24歳で早世した。


 玉石を載せた小板葺き屋根が連なる江戸時代の追分宿は、食売女(遊女)を抱える旅籠が数多くあり、その中でも脇本陣であった油屋(小川助右衛門)は一二を争う大旅籠屋であった。
通りに面した2階建て出桁造りの持ち送りには彫刻が施され、軒下は土足で入れる板敷きとなっており、右手にお武家様を迎える門(ある寺へ移築)を構えた、主屋・離れ座敷・土蔵からなる広大な屋敷であった。
主屋の1階には巾4間の大きな神棚があり、脇には台所や大貯水槽を備え、2階に小さな寝間が数多くあったという。
位の高い武士は門から入って式台に上がり、1階にある上段の間に通されたようだが、そこには地下室があり大名が泊まる時は家来が検査して錠に封印していたとの事。
 明治5年の芸娼妓解放令以降は旅館となり、堀辰雄・立原道造といった文士らが訪れる静かな宿となっていたが、昭和12年11月に隣家の出火で類焼し、その後 現在地(道路を挟んで反対側)へ移転し再建されたが、棟札には上棟が昭和38年となっており増築したようである。
※この棟札は解体された別館の物との事(追記ご覧ください)
旅館閉業を経て解体の危機が訪れたが、平成24年に「油やプロジェクト」が開始され、修復・改装し再生している。
この活動を始めた追分コロニーは隣にあり、再建(2006)された旅籠『柳屋』を借りて古本屋を営業するご夫婦。
油屋の保存を目指し、出資者を募って取得する事ができたが、土地建物の維持と活用経費(公共料金等)は毎年掛かるという。
油屋・古写真
油屋の古写真と平面図(展示パネルより)
油や・看板
看 板
油屋・棟札
棟札 (施工は小諸の大建組) ※解体された別館の物 

【参考文献】
「食売女」岩井伝重 著 1968
「東海道宿駅と其の本陣の研究」大熊喜邦 著 1942 丸善

【2017年9月 訪問】

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2017.
07.09
Sun
建築年:明治後期
設計施工:設計者は不明、棟梁は14代 伊藤佐久ニ
所在地:岡谷市御倉町2-20 
見 学:9:00 ~16:30(12/1~2/末は16:00まで) 有料
休館日:水曜日・祝日の翌日・年末年始
TEL:0266-22-2330
アクセス:JR岡谷駅~徒歩約 5分
  ※詳しくはこちら⇒【岡谷市HP
旧林家住宅
 製糸場・鉄砲店を営んでいた初代・林国蔵(1846-1916)の本邸で、約10年の歳月を掛けて完成したと云われています。
林家が東京へ本居を移した後この建物は別荘となっており、普段は管理人だけが常駐していました。
昭和62年に所有者の(イチヤマカ)一山カ林合名会社から土地売却の申し出を受け、平成元年に岡谷市が買収(建物・調度類は寄贈)、修復工事が行われ、平成6年から一般公開されています。
旧林家住宅・蔵

旧林家住宅・蔵2
外蔵: 繭の貯蔵用として明治26年頃建造。 殆どの部材がカツラを使っているため桂倉とも呼ばれている。 
旧林家住宅・洋館1
洋館:昭和3年に敷地の隣にあった旧イチヤママル製糸所(ヤマトモ岡谷製糸)が火事になって洋館屋根が類焼し、瓦屋根→金属屋根に改修。 外壁の色が一部違うのは平成の修復工事によるもの。
旧林家住宅・洋館装飾1
外壁はセメン漆喰
旧林家住宅・洋館装飾2
乙女チックな装飾
旧林家住宅・主屋座敷
主屋の表玄関隣りにある座敷
旧林家住宅・主屋上座敷
主屋の上座敷
旧林家住宅・彫刻
上座敷の彫刻は松本の彫師・清水虎吉(好古斎)作
旧林家住宅・台所
台所
旧林家住宅・呼び鈴
提灯箱と呼び鈴
旧林家住宅・仏壇
仏壇
旧林家住宅・仏壇彫刻
仏壇の彫刻も清水虎吉(好古斎)作
旧林家住宅・装飾
左:広縁にある欄間              右:便所の建具の引手
旧林家住宅・離れ1F上座敷
離れ1F上座敷
旧林家住宅・離れ2F座敷
離れの2F座敷は天井・壁・襖が金唐革紙貼り(一部補修されているが当時の物)
旧林家住宅・茶室
洋館の内部にある水屋と茶室
旧林家住宅・茶室横座敷
茶室横の座敷
旧林家住宅・家具1
洋館の調度類
旧林家住宅・家具2

旧林家住宅・洋館内部1

旧林家住宅・漆喰彫刻
洋館の漆喰彫刻


 林国蔵は弘化3年(1846)倉太郎の長男として生まれ、家業の製糸所を継承します。 
林家は倉太郎の代に坐繰製糸を成し、明治9年に岡谷に天竜製糸所(後の一山カ製糸場)を開設。 生糸の統一を計るため片倉と林で開明社を創業し、共同揚返所を設けます。 明治19年(1886)倉太郎が亡くなると国蔵が製糸所を受け継ぎ、開明社にも参画。 社長は片倉や林と一年交代で務め、諏訪薪炭㈱設立、郵便局設置・中央線の開通を薦めました。
 林国蔵は明治24年頃から東京に進出し、鉄砲商・川口亀吉の死別により免許を継承して明治26年(1893)「川口屋林銃砲火薬店」を創業。 店舗も馬喰町から本銀町へ移転して事業を拡大、全国で1・2位を争う業者となります。
製糸業でも岡谷の屋敷の隣にイチヤママル/一山○製糸所、深谷のイチマル/一○製糸所(開国館)と工場を増やし、その他にも炭田や津川鉱山を買収、有志と共に諏訪索道㈱や諏訪薪炭㈱を設立しています。
しかし、明治40年恐慌が原因で岡谷の2つの製糸場を手放し、大正5年(1916)国蔵が他界するとその翌年、深谷の一○製糸所(開国館)も買収されました。
 一方で川口屋林銃砲火薬店は、2代目・林国蔵(宮澤豊助:旧藩士の家の出)が事業を継承。 一時ダイナマイト等も取り扱っていましたが、現在は㈱川口屋となり、コンサートグッズでお馴染みのルミカライトや発炎筒・塗料などの販売の他、法面緑化・展示会ブース工事なども行っているようです。
 ちなみに深谷の開国館に関する明治44年の文献によると、深谷停車場の南側にある池は開国館が製糸用に用いるため明治43年に開掘し、堤上に桜の木を移植したとなっており、現在の下台池公園と思われます。
旧林家住宅・蔵4
【参考文献】
「日本製糸業の大勢 : 成功経歴」岩崎徂堂  1906 博学館
「深谷案内」大谷高重良 1911
「深谷案内」高田晴司  1923 深谷案内編纂会
「旧イチヤマカ林家住宅:シルクと金唐紙の館」信濃建築史研究室 2001 岡谷市教育委員会
「日本橋紳士録」1929 日本橋紳士録編纂所
㈱川口屋⇒ 【H P】  

【2016年7月 訪問】


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2017.
06.27
Tue
建築年:昭和11年(1936)
構 造:鉄筋コンクリート造2階建、一部地下あり
設計施工:設計は三苫繁實(長野県営繕課)、施工は岡谷組
所在地:長野県岡谷市幸町8-1(岡谷市役所前)
アクセス:JR岡谷駅~徒歩約20分

旧岡谷市役所
 2016/7/2に市制施行80周年の記念事業として旧岡谷市役所庁舎が1日だけ公開されました。
通常は一般公開されておらず、現在は(公財)おかや文化振興事業団の事務所となっています。
旧岡谷市役所2
 昭和11年に平野村が岡谷市になる事となり、製糸家・尾澤福太郎が私財を投じて市庁舎を建設して市に寄付。
昭和10年6月着工、昭和11年3月に竣工、落成式が5/23に行われています。
そして昭和62年まで市役所、平成27年まで消防庁舎(岡谷消防署)として使用されました。
旧岡谷市役所・玄関タイル
玄関タイル
旧岡谷市役所・1F
左:公衆溜り                右:カウンターは増設されている
旧岡谷市役所・事務室
事務室裏手
旧岡谷市役所・便所/電話室
左:便所                    右:電話室
旧岡谷市役所・1F村長室
1F村長室(畳敷きに改修)
旧岡谷市役所・1F食堂
1F食堂
旧岡谷市役所・1F宿直室
1F宿直室
旧岡谷市役所・1F宿直室床の間
1F宿直室:立派な床の間付き
旧岡谷市役所・階段①
階段➀
旧岡谷市役所・平面図1F
1F平面図 (パンフレットより)
旧岡谷市役所・平面図2F
2F平面図 (パンフレットより)
旧岡谷市役所・2F議場
2F議場
旧岡谷市役所・古写真
議場の古写真  ※展示パネルより
旧岡谷市役所・2F議場の枠
左:議壇はなくなっている              右:丸窓
旧岡谷市役所・映写室
左:映写室                    右:屋根は鉄骨組
旧岡谷市役所・2F議場控室
左:議場控室(どの部屋も天井が高い)扉の奥は議場であったが部屋に改造している
右:腰壁の板   
旧岡谷市役所・2F貴賓室
2F貴賓室
旧岡谷市役所・2F議員室①
2F議員室①
旧岡谷市役所・2F議員室②
2F議員室②:床の間があるが畳敷きではなかった
旧岡谷市役所・2F委員室①
2F委員室①:こちらも畳敷きではなかった
旧岡谷市役所・階段②
階段➁
旧岡谷市役所・左玄関
左玄関の扉とホール
旧岡谷市役所・外壁
スクラッチタイルとボイラー用の煙突
タイルは信州・高遠町の丸千組(高遠焼)の物だという
旧岡谷市役所・外壁2


 尾澤福太郎は万延元年(1860)岡谷村で金左衛門の長男として生まれ、家業の尾澤組(カクキ)を経営。 大正12年に㈱尾澤組となった会社が、さらに片倉製糸紡績会社と合併して常務取締役に就任しました。
尾澤家は金蔵の代に坐繰製糸を成し、金左衛門が明治9年に坐繰を廃して工場を建設。 生糸の統一を計るため片倉と林で開明社を創業し、共同揚返所を設けます。 社長は片倉や林と一年交代制で務め、諏訪薪炭㈱設立、郵便局設置・中央線の開通を薦めました。
 品性高尚な母に育てられたという若い頃の福太郎については、「其豊頬愉顔なる福象は眉の間に、温良謹厚にして至誠至孝なる天然の美質は妙に其慈惰を表し、真を写して人を動かしむ。恰も鼠を捕る猫は爪を隠すと、翁に代わりて掌司す。」と表現され、弟の琢郎や亮一と共に事業を継承していたようです。(※1)
尾澤福太郎の銅像クリーニング
尾澤福太郎の銅像(岡谷出身の彫刻家・武井直也作)が武蔵野美術大学によってクリーニングされていた
マル千小口店
岡谷駅へ向かう途中にある立派な蔵を持つ店 
かつてマル千小口(岡谷市幸町6-27)という店であったようで、窯業/金属業となっている。
スクラッチタイルは使われていないが、これも丸千組と何か関係があるのだろうか?

【参考文献】
諏訪総合設計㈱HP「正博の建建諤々」(2003耐震診断)
(※1)「日本製糸業の大勢 : 成功経歴」岩崎徂堂 編 1906 博学館

【2016年7月 訪問】


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