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2018.
10.14
Sun
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉217
開 園:9時~17時(12~1月は10時~16時) 
見 学:有 料(軽井沢高原文庫との共通券有り)
アクセス:軽井沢町内循環バスor 西武バス「塩沢湖」バス停近く
TEL:0267-46-6161
  ※詳しくはコチラ⇒【軽井沢タリアセン
睡鳩荘
 スケートリンクとして人工的に造られた塩沢湖。 その湖畔に昭和46年(1971)塩沢遊園として開園。
平成8年『軽井沢タリアセン』と改称され、遊戯施設やバラ園の他、軽井沢の古い建物が移築されています。
睡鳩荘2
『睡鳩荘』(朝吹山荘)
建築年:昭和6年(1931), 設計:ヴォーリズ建築事務所
 実業家・朝吹常吉の別荘として愛宕山下の矢ヶ崎川近くに建てられたもので、長女・朝吹登水子の遺志を受けて移築し2008年から公開。
この家を建てる前に使っていた宣教師の別荘は2階建ての赤い家で、急な階段に手摺代わりの太いロープが張ってあったとの事。
そして隣地の別荘を入手し、睡鳩の掛け軸を益田孝に譲った代金でこの別荘を新築している。
ちなみに朝吹常吉の妻・磯子は、長岡外史の長女でとても美人なテニス選手であった。
睡鳩荘・サロン
1Fサロン(2Fは撮影禁止)
睡鳩荘・照明
照明(左は徳川喜和子からのプレゼント)
睡鳩荘3
後にバルコニーは1Fサロンに光が入るよう屋根を半分にして改造されたという


◆旧 レーモンド別荘『夏の家
建築年:昭和8年(1933), 設計:レーモンド建築設計事務所
夏の家1
 アントニン・レーモンドが軽井沢に建てたアトリエ兼別荘を移築したもの。
栗の柱・唐松の梁・地元の杉に、当時はコンクリート骨材に地元の火山岩が使われ、屋根は草葺きとし、窓にスダレを掛けていた。
現在はペイネ美術館となっており、室内の撮影は出来ない。
夏の家2
 アントニン・レーモンド(Antonin Raymond:1888-1976)はクラドノで生まれ、大学で建築を学び、アメリカに渡る。
F.L.ライト(Frank Lloyd Wright)の下で帝国ホテルの詳細図やパースを担当し、大正8年(1919)来日。
その後、独立して目黒の日本家屋で暮らし始めると、レーモンドは日本の歴史や文化を研究し、日本の風土に合った設計を心掛けるようになった。
デザイナーであった妻ノエミも、三田 平凡寺に師事するほど日本の暮らしを気に入ったようだ。
 戦争のため昭和12年(1937)夫妻が日本を去る時、霊南坂の自邸は葉山へ移築され、この夏の家は翌年に売却されている。
終戦後、日本の悲惨な状況を知ったレーモンドはマッカーサーに手紙を書き、再び来日して活動を再開。
かつての図面は所員が葉山へ避難させたため無事であったという。
主な作品としては、星製薬商業学校・軽井沢聖ポール教会・聖アンセルモ目黒教会藤澤カントリー倶楽部ハウスなど。


旧軽井沢郵便局舎(明治四十四年館)
建築年:明治44年(1911)
旧軽井沢郵便局
明治44年(1911.7.11)2等局へ昇格した頃に建設されたようだ。
平成6年に解体して現在地に移築した際に、外壁は建設当初の色に戻している。
旧軽井沢郵便局・内部1
1Fはレストラン、2Fは深沢紅子 野の花美術館(2Fは撮影禁止)
旧軽井沢郵便局・内部2
『レストランソネット』 9時~17時、無休(12~2月は不定休)、TEL:0267-45-3662
レストランソネット
信州産野菜が使われた高級感あるパスタランチ
J&C Fischer Piano1
自動演奏ピアノ(アンピコプレイヤー):アメリカのJ&C Fischer製
 軽井沢高原文庫でお見掛けした職員の方が来られ、両施設は㈲塩沢遊園が運営しているとの事で、ピアノを拝見させて頂く。
このピアノはアメリカの邸宅にあったもので、ピアノロール約1500本も入手したとの事。
過去にピアニストによるコンサートが行われ、古いピアノロールで自動演奏も試みたが上手くいかなかったそうだ。
気になるこのピアノについて少々調べてみた。
J&C Fischer Piano2
 J&C Fischer社は、ナポリからアメリカに渡ったジョンとチャールズ兄弟が、ウィリアム・ナンズと仕事を始め、Nunns&Fischerを設立したメーカーで、フィッシャー家は祖父の時代からウイーンでピアノ職人をしていたという。
ナンズは1840年に引退したため、J&C Fischerへ社名変更。 アメリカで数多くのピアノを製造したが、度重なる買収により現在はブランド名だけが残り、中国で製造されている。
建築家のライト(Frank Lloyd Wright)は牧師の父がピアニストであった事からピアノに詳しく、1928年頃にJ&C Fischer Pianoを置くための部屋を設計したと云われている。
J&C Fischer 1927年カタログ※には、このピアノとよく似たアールデコ調のStyle14『LATIN GRAND』が載っているが、マホガニー材の豪華な物で▽マークが入る。 このピアノは黒い塗装仕上げでマークも違うので、後に発売された機種なのかもしれない。 
※参考カタログ⇒【Antique Piano Shop.HP
J&C Fischer Piano3

【参考文献】
「軽井沢町史」 1936
軽井沢避暑地100年「大正の軽井沢‐朝吹登水子」1987 国書刊行会
「私と日本建築」A.レーモンド 著 1967 鹿島研究所出版会
「自伝アントニン・レーモンド」1970 鹿島研究所出版会

【2017年9月 訪問】
※下線で記載したものは訪問記がありますので、クリックしてご覧ください。


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2018.
09.30
Sun
開 館:9時~17時(展示替え中,12〜2月は休館)
見 学:有 料
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町塩沢湖202-3
アクセス:軽井沢町内循環バスor 西武バス「塩沢湖」バス停近く
TEL:0267-45-1175
   ※詳しくはコチラ⇒【軽井沢高原文庫

 昭和60年(1985)開館し、軽井沢に所縁のある作家の資料などを展示する他、園内には別荘も数棟移築されており、共通券を購入すれば隣の軽井沢タリアセンにある建物も見学できます。
野上弥生子書斎1
野上弥生子書斎『鬼女山房』 
建築年:昭和8年(1933)、平成8年(1996)移築
野上弥生子書斎2
法政大学村(北軽井沢)にあった作家・野上弥生子の別荘の離れで、自ら山姥と称して1980年代まで夏を過ごした。
左奥には水屋が有り、茶室としても使える。(機械の下に炉が切ってある)
野上弥生子書斎3
左:玄関                 右:玄関脇にあるトタンの流し台
野上弥生子書斎4
裏手には便所も設置されており、快適な書斎となっている


堀辰雄山荘1
◆堀辰雄1412番山荘
建築年:大正時代、平成20年(2008)移築
堀辰雄山荘・暖炉
左:暖炉表側               右:暖炉裏側
堀辰雄山荘・天井
吹き抜けた天井に土管の煙突
堀辰雄山荘・内部
左:壁や戸には網代編みのアンペラが張られている        
右:軽井沢彫りの箪笥や堀辰雄が使用した家具も展示
堀辰雄山荘2
 これは釜の沢にあった建物で、昭和16年に聖公会の宣教師P.A.スミスから譲り受けたものだが、堀辰雄は油屋の離れを疎開先とし、戦争で家を失くしたドイツ人女性に暫く貸していた。 その後、信濃追分に新居を建てたため、深沢省三・紅子夫妻が別荘として借りていた。
 深沢夫妻は盛岡出身で、昭和22年(1947)岩手県公会堂の地階に開設された岩手美術研究所で指導にあたり、翌年には県立岩手美術工芸学校を設立する等、しばらく故郷で活動している。
その後も省三は岩手の大学で教鞭をとっていたが、紅子は東京・石神井にアトリエを構え、喘息治療の傍ら自由学園の講師をしていた。
夫妻は山中湖にも別荘があり、省三は1992年3月24日、紅子は一周忌の翌日にその別荘にて永眠した。
深沢紅子の美術館は軽井沢タリアセン内の旧郵便局2Fにある。


有島武郎別荘1
◆有島武郎別荘『浄月庵』 
建築年:明治末期、平成元年(1989)移築
有島武郎別荘2
 作家・有島武郎が大正5年から夏を過ごした別荘。 大正12年に婦人公論記者・波多野秋子とこの建物1階で心中した。
この別荘は税関長(横浜税関本関)を務め、後に実業家となった父・有島武が、明治末期に三笠ホテルの近くに建てたもので、近年まで現地にあったが平成元年(1989) 旧軽井沢区青年部.樫の実会より寄贈を受けて移築された。
有島武郎別荘4
左:階段              右:裏口
有島武郎別荘・2F
2F
有島武郎別荘3
1階はcafe「一房の葡萄」となっているが現在は休業している。(10〜17時,不定休,TEL:0267-46-2001)

【2017年9月 訪問】
※下線で記載したものは訪問記がありますので、クリックしてご覧ください。



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2018.
09.17
Mon
建築年:明治26年(1893)
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢815(草軽交通駅舎旧軽井沢の裏手)
見 学:事前予約制 
TEL:0267-45-8695(軽井沢町 教育委員会 生涯学習課 文化振興係)
 
※下記の日は予約無しで見学可   詳しくはコチラ⇒【八田別荘
【2018夏の一般公開】2018.8.11㈯~9/30㈰の土休日,10時~15時迄(外からの見学)
八田別荘1
 明治から外国人の避暑地として人気があった軽井沢。 その影響を受けた日本人初の別荘が現地保存されています。
施主・八田裕二郎の自宅は東京小石川に在りましたが、霧積温泉で療養した際に軽井沢を訪れ、別荘で夏を過ごす外国人に感化されて土地を購入。
当時の軽井沢は電気や水道もなく、配電されたのは大正3年でしたが、八田別荘では昭和の初め頃までランプの生活をしていました。
海軍大佐であった八田裕二郎は、病気で休職した療養中に軽井沢を訪れ、後に別荘を建て軽井沢避暑団の理事も務めました。
若い頃の留学経験から語学も堪能で、外国人や地元住民から相談を受ける事もあったのでしょう。
海軍時代には有栖川宮威仁親王と同じく海軍特別調査局に在籍した時期もあったようです。
福井市出身で明治45年(1912)当選して衆議院議員になると、憲政擁護運動の県民大会を開くための会合を主催しています。
この建物は近年まで八田家の別荘として残されていましたが、平成26年度に軽井沢町へ譲渡(建物は寄贈)されました。
八田別荘2
北側:勝手口と浴室・便所がある
八田別荘3
東側:右手の穴は井戸の跡で埋められている
八田別荘・基礎
基礎と土台
八田別荘・サンルーム
玄関脇にあるサンルーム
八田別荘・1F座敷1
1F座敷
八田別荘・1F座敷2
座敷の奥に茶の間
八田別荘・茶の間
茶の間:円卓はちゃぶ台形式で脚をたためる
八田別荘・台所
左:台所                右:洗面所
八田別荘・浴室
左:浴室内の洗面台         右:近年まで使用したため改装されている
八田別荘・便所
便所も改装済み(左:便所前の棚、右:便所内部)
八田別荘・寝室
1F寝室
八田別荘・2F
2Fは一部屋のみだが、子や孫たちが雑魚寝する光景が思い浮かぶ
八田別荘・屋根
トタン屋根
 この別荘は自費で建設したものだが、勤務地の高等官以上の官舎は有料であったようで、玄関・取次の間・床の間付き室は公用として家賃の対象から除外すると海軍規則に書かれている。
ちなみに横須賀鎮守府司令長官舎と同じ敷地内にあった司令副官の官舎は、建坪40坪・平屋の日本家屋であった。
八田別荘・地蔵
明治43年(1910)の大洪水で流れ着いたお地蔵様

【参考文献】
時事評論1913.8「沈着綿密なる御性質」豫備八田海軍大佐 著
「福井市史 通史編 3 (近現代)」福井市 2004

【2017年9月 訪問】


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2018.
09.02
Sun
浅間山
 堀辰雄や立原道造らがこよなく愛した信濃追分。
江戸時代、北国街道と中仙道の合流地点として大いに栄えた追分宿があった。
信濃追分駅
◆信濃追分駅
国鉄/JRの駅であったが、新幹線開通により信越本線は無くなり、しなの鉄道の駅となった。
現在は無人駅だが、別冊.暮しの手帖『あたらさん(休刊中)』の編集室があり、信濃追分駅を管理している。
追分宿まで徒歩30分程あるので軽井沢町コミュニティバスに乗り、「追分昇進橋」か「追分公民館」バス停で降りると良いだろう。
浅間神社
浅間神社(あさまじんじゃ)
由緒書きによると、明治元年に浅間山が鳴動し、翌年に度々噴火。 心配した住民が県知事に上申し、勅祭が執り行われた。 
本殿は室町時代のものと云われるが、柱などは交換されており、天明8年(1788)の棟札が見受けられるとの事。
御影用水の上堰
御影用水の上堰:佐久平の地を潤す灌漑用として、江戸初期に掘削された。
御影用水の源流は2つあり、上堰は千ヶ滝、下堰は白糸の滝を水源としている。
浅間神社前の水流は上堰だが追分宿には下堰もあり、各旅籠はその水を引込み、台所や風呂場で使っていたようである。
堀辰雄邸
堀辰雄文学記念館:軽井沢町大字追分662  TEL:0267-45-2050
【開館】9~ 17:00 (入館は16:30迄) 【休館】水曜(祝日の場合は開館,7/15~10/31無休)・年末年始
昭和26年この地に新築し、亡くなるまで暮らした家が残る
堀辰雄邸・書斎
掛け軸「雨過山如洗」は川端康成から新築祝いとして贈られたもの
堀辰雄邸2
左:書庫を新築して蔵書の並べ方を妻に指示していたが、完成を見る事なく他界した
右:机や椅子は堀辰雄がデザインした
旧 油屋
旧 油屋(文化磁場油や):軽井沢町大字追分607
 江戸時代に脇本陣であった油屋は一二を争う大旅籠屋であった。 明治5年の芸娼妓解放令以降は旅館となり、堀辰雄・立原道造らが訪れる静かな宿となっていたが、昭和12年(1937)隣家の出火で類焼し、翌年に現在地へ移転し再建された。
近年になり旅館閉業で解体の危機が訪れたが、平成24年に「油やプロジェクト」が開始され、修復・改装して再生した。
【営業】4月下旬~11月初の11~17時(GW/夏季を除く火・水は定休日) TEL:0267-31-6511
※内部の様子はコチラ⇒【旧 油屋
追分コロニー
追分コロニー:軽井沢町大字追分612(旧 油屋の東隣)
江戸時代の旅籠『柳屋』が2006年に再建され、その建物を借りて古本屋を営むご夫婦は、旧油屋を再生した油やプロジェクトの創設者でもある。
【営業】12時~夕暮れ迄(4~10月:木曜~日曜日、11~12月:週末+祝日のみ) TEL:0267-46-8088
※詳しくはコチラ⇒【追分コロニー
追分コロニー裏
追分コロニーの裏にある貯水池:御影用水の上堰から水を引込み、旅籠『柳屋』で使ったのだろうか。
亀田屋1
旧 亀田屋:軽井沢町大字追分604-2
現在、亀田屋商店 と 布来籠工房ままごと屋(TEL:0267-45-4008)が営業
亀田屋2
旧 亀田屋は追分宿でよく見られた建物の特徴が残る
追分宿本陣跡
本陣跡(土屋市左衛門邸) ※建物は現存せず
江戸時代は参勤交代の大名が泊まり、明治11年に天皇の行在所にもなったが、明治26年の信越線開通後は宿場町が衰退していった。
追分宿本陣の裏門
本陣の裏門(天保2年)
御代田町の内堀邸に移築されていた裏門が平成17年に軽井沢町に寄贈され、堀辰雄文学記念館の前に移築された。
追分公民館
追分公民館
こちらが地元住民と別荘会の寄付により建設されたという、武 基雄が設計した追分区集会所か?
武 基雄(1910-2005)は早稲田大学卒業後、石本喜久治建築事務所に勤め、立原道造と同期であった。
看板の書は、追分宿三浦屋の子孫で女流書家・稲垣黄鶴によるもの。
津軽屋1
◆枡形の茶屋(茶屋本陣)旧 津軽屋 
江戸時代は旅人の休憩所であり、大勢の客がある時は土間の端に寄せておいた炉付き縁台2つを出した。
奥や2階に座敷があり、待合としても使われたというが、改築(建替え?)されている。
津軽屋2
津軽屋の漆喰看板
追分宿は西側だけ枡形(折れ曲がった街道)があり、石垣で押えた芝土手に木戸が設けられたと云われる。
追分宿の分去れ
追分宿の分去れ(左:中仙道,右:北国街道)
石造物群 …鳥獣供養塔.勢至菩薩(勢至立像),廻国塔(文字塔),勢至菩薩(勢至立像),子育地蔵(子育座像),伊勢講供養塔(常夜燈),子育地蔵台石(道標銘),歌碑(森羅亭萬象の歌碑),道標,道祖神
追分・子育地蔵
子育地蔵(子育座像)
上の台座には各地までの距離、下の台座には願主名、善光寺銅佛地蔵建立と刻まれているが、ぬれ仏と何か関係があるのだろうか? 

【参考文献】
「食売女」岩井伝重 著 1968
「軽井沢町・御代田町文化財マップ」長野県東信教育事務所 2015 

【2017年9月 訪問】


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2018.
08.19
Sun
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町追分607
店 舗:4月下旬~11月初の11~17時(GW/夏季を除く火・水は定休日)
宿 泊:4月下旬~10月末の木曜~日曜日(GW・夏季は月~水OK)大人のみ
TEL:0267-31-6511
アクセス:中軽井沢/信濃追分駅前~軽井沢町内循環バス「追分昇進橋」バス停~約200m
 
     ※詳しくはコチラ⇒【油やプロジェクト
旧 油屋
 小雨降る中仙道追分宿を歩き、堀辰雄文学記念館や追分宿郷土館を見学。 途中、古本屋に立ち寄り、最終チェックINの17:00間際に宿へ着く。
かつて『油屋』という旅館であった建物の1階にはギャラリーやShopがあり、もっと早くに到着すれば良かったと悔やみながら足早に見学。
この2階が素泊りの宿『油やSTAY』になっている。 テレビの無い部屋で、膝を掛布団に包み、建築の古本を開く。
暫らくするとお腹が空いてきたが、近くの蕎麦屋は夜の営業はしておらず、コンビニも無い。 車がないため途方に暮れる…
その様な宿泊客のために無人販売のカップラーメンやドリンクがちゃんと用意してあった。 
※近くに夜営業の飲食店やコンビニも出来たそうです(追記ご覧ください)
油や・1Fホール
 受付にあった地元産プルーンを買い求めようと下階に降りた際、支配人に話を伺う事が出来た。
この建物は『油やプロジェクト』が保存再生し、運営管理する『追分コロニー』は先程立ち寄った古本屋との事であった。
静かなその夜は、女性芸術家、観光ではなさそうな男性、コンサート帰りの演奏家らが泊まっていた。
夕食を持ち込み、古書を買い求め、夜を過ごす客人も多いのだろう。
但しシャワーしか無く、冬場はとても寒くなるので休業するとの事であった。
油や・玄関
玄 関 (一部に丸子にあった商家の古材が使われている)
油や・追分喫茶室
追分喫茶室(旧 応接間)
油や・ルーサイトギャラリー
以前ご紹介した東京・柳橋のルーサイトギャラリーの支店もあった
油や・古書
昭和レトロな雑誌も
油や・1F回廊
1F回廊:その他に中古レコード店やタイル屋がある
油や・スペース710
スペース710(旧 厨房)
油や・水廻り
左:スペース710でのワークショップ       右:浴場跡?もShopに
油や・2F
左:2F廊下                 右:客室ドアの彫刻
油や・客室1
客 室
油屋・浴衣
浴衣は旧油屋の物
油や・洗面所
男女別のトイレ・洗面・シャワー室があり安心 
油や・備品
コインランドリーも完備
油屋・資料室
資料室:右手にちらりと見える写真は立原道造
詩人として有名な立原道造(1914-1939)は建築家であり、東京帝国大学の建築学科を卒業後、石本喜久治建築事務所に務め、海軍家族病院や横浜日吉の秋元邸を担当した。
一高時代から堀辰雄の師事を受けており、文壇でも活躍。 毎夏、訪れるほど信濃追分を気に入り油屋を定宿としていたが、昭和12年の火災で逃げ遅れ、切った格子窓から助け出されたという。 病気により僅か24歳で早世した。


 玉石を載せた小板葺き屋根が連なる江戸時代の追分宿は、食売女(遊女)を抱える旅籠が数多くあり、その中でも脇本陣であった油屋(小川助右衛門)は一二を争う大旅籠屋であった。
通りに面した2階建て出桁造りの持ち送りには彫刻が施され、軒下は土足で入れる板敷きとなっており、右手にお武家様を迎える門(ある寺へ移築)を構えた、主屋・離れ座敷・土蔵からなる広大な屋敷であった。
主屋の1階には巾4間の大きな神棚があり、脇には台所や大貯水槽を備え、2階に小さな寝間が数多くあったという。
位の高い武士は門から入って式台に上がり、1階にある上段の間に通されたようだが、そこには地下室があり大名が泊まる時は家来が検査して錠に封印していたとの事。
 明治5年の芸娼妓解放令以降は旅館となり、堀辰雄・立原道造といった文士らが訪れる静かな宿となっていたが、昭和12年11月に隣家の出火で類焼し、その後 現在地(道路を挟んで反対側)へ移転し再建されたが、棟札には上棟が昭和38年となっており増築したようである。
※この棟札は解体された別館の物との事(追記ご覧ください)
旅館閉業を経て解体の危機が訪れたが、平成24年に「油やプロジェクト」が開始され、修復・改装し再生している。
この活動を始めた追分コロニーは隣にあり、再建(2006)された旅籠『柳屋』を借りて古本屋を営業するご夫婦。
油屋の保存を目指し、出資者を募って取得する事ができたが、土地建物の維持と活用経費(公共料金等)は毎年掛かるという。
油屋・古写真
油屋の古写真と平面図(展示パネルより)
油や・看板
看 板
油屋・棟札
棟札 (施工は小諸の大建組) ※解体された別館の物 

【参考文献】
「食売女」岩井伝重 著 1968
「東海道宿駅と其の本陣の研究」大熊喜邦 著 1942 丸善

【2017年9月 訪問】

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