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2018.
04.30
Mon
建築年:明治40年(1907)改装有り
構 造:木 造
設計施工:不 詳
所在地:岩手県盛岡市安倍館町19-64
公 開:10時~15時
休 館:月・火・8/10~8/20・12/25~1/15
電 話:019-646-1817
アクセス:JR岩手駅前~「安倍館」バス停~約3分  ※詳しくはコチラ⇒【一ノ倉邸
一ノ倉邸
 東京都知事などを務めた阿部浩の別邸で、次に所有した一ノ倉則文も亡くなり、しばらく無人の状態に。
市民団体が荒廃した建物を清掃して保存活動を始めたところ、その価値が認められ、平成4年に盛岡市が取得し公開しています。
一ノ倉邸・大広間
大広間
一ノ倉邸・座敷1
座 敷
一ノ倉邸・座敷2
次の間
一ノ倉邸・広縁
広縁にある水屋
一ノ倉邸・天窓
中廊下には天窓
一ノ倉邸・洗面所
左:洗面所              右:脱衣所
一ノ倉邸・浴室
浴 室(桶風呂と五右衛門風呂)
一ノ倉邸・便所
便 所:玄関の様に一段下がっている
吊下げ手水器は下の金具を手の平でプッシュすると水が出る仕組み
一ノ倉邸・囲炉裏の間
囲炉裏の間:天井は吹き抜け
一ノ倉邸・展示品
左:鳥カゴの様なストーブ             右:花巻土人形など
一ノ倉邸保存の立役者で管理者でもある西郷和子氏所有の品々が展示されている
一ノ倉邸・池
 かつては大きな池があり木舟が浮かんでいた。 庭の東屋の下には煉瓦を焼いた窯跡があり洞窟の様になっていたという。
昭和17年頃まで池の畔にあった2階建て離れは久保学園(現・盛岡誠桜高等学校)に移築された後、解体されたもよう。
庭には京都の高尾から運んだというモミジが植えられており、紅葉の名所となっている。
 平成24(2012)この池に「復興の花.中尊寺ハスを広める会」の株分け第1号が植えられた。
これは中尊寺金色堂の藤原泰衡の首桶にあったハスの種から開花したもので、奥州藤原氏ゆかりの厨川柵にあるという事で移植された。
一ノ倉邸・井戸
井戸

 施主・阿部浩は嘉永5年(1852)盛岡生まれ。 南部藩士の父が早世して母の手一つで育てられますが、幼馴染で後輩の原敬を背負って岩山に登るほど立派に成長します。 幕末に地儀隊に参加して秋田へ向かう途中、南部藩が敗北。
明治に入ると役人になり、鉄道事務官として国鉄盛岡工場の誘致を勧めたり、分課規程の草案を作成しますが、議論の最中に長官の井上勝を殴るという風聞があるほど血気盛んであったようです。
その後は衆議院議員となり、社寺局長まで昇進。 千葉・東京・新潟などの知事を歴任しています。
私生活では書家の佐々木辰(タツ)と結婚して一男4女を儲け、長男・金剛はシュールレアリズムの画家となりました。
 阿倍一族の末裔と称していた阿部浩は所縁の地を購入し、東京から庭師を招いて造園。 明治40年(1907)秋この別邸が完成。
阿部浩が大正11年(1922.10.7)東京の品川本邸で他界すると、大正14年(1925)この土地・建物を一ノ倉則文が買収しています。
 一ノ倉則文は、一ノ倉貫一(岩手県農工銀行頭取・衆議院議員)の孫で、岩手県農工銀行や岩手林業㈱の取締役を務めた人物であり、郷土史研究家として盛岡の歴史に関する著書も出している事から、厨川柵にあるこの屋敷に興味を持ったのかもしれません。

【参考文献】
「岩手県盛岡市当面之人物」 岩手民友新聞社1930
「庭園物語」 岩手日報社 1954
「もりおか物語10」 盛岡の歴史を語る会 1979
「岩手県近代和風建築」 岩手県教育委員会 2007

【2017年6月】


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2018.
04.15
Sun
建築年:大正9年(1920)竣工、 曳き屋・改装有り
構 造:煉瓦造2階建て
設計施工:不 詳
所在地:岩手県盛岡市大沢川原3-5-26
公 開:平日9時~17時の空室時(12時~13時は昼休み)
休 館:8/13~8/16、年末年始
電 話:019-654-6067
アクセス:JR岩手駅~徒歩約8分
  ※詳しくはコチラ⇒【盛岡市HP
旧宣教師館1
 この建物は大正時代の宣教師館で、現在は『大沢川原センター』という公民館なっており、朝一番に訪問して管理者の許可を得て拝見しました。
しかしその日は朝から予約で満室状態。 早々に貸室利用者が訪れ、椅子を出す手伝いをしながら慌てて写真を撮りました。
 米国リフォームド・ミッションが盛岡基督教会(現・下ノ橋教会)の宣教師住宅を建てるため、明治21年(1888)土地を購入。
大正9年(1920)にこの建物が建設されました
さらに同じ敷地内に、昭和6年(1931)幼稚園併用のキリスト教センター『盛岡善隣館』が新築され、英語教室などを開催。
その後の道路拡張により土地建物は昭和51年(1976)盛岡市に売却され、宣教師館は曳き屋されました。
盛岡善隣館は閉鎖となりましたが、NPO法人善隣館として再始動。 現在も様々な活動しています。
旧宣教師館1F
1 F
旧宣教師館1F暖炉
1F居間の暖炉
旧宣教師館・台所1
台所(昭和時代に改装?)
旧宣教師館・台所2
現在のシステムキッチンに負けないほど良い構成
旧宣教師館・玄関
勝手口の内と外
旧宣教師館・1Fホール
1F階段ホール
旧宣教師館・便所
左:1F階段下の便所             右:2F浴室跡
旧宣教師館・電気
左:1F便所の捻り式スイッチが現役!(当初の物かは不明)
右:三共電気製? 昭和30年代の物か
旧宣教師館・2F2
2Fサンルーム付きの部屋
旧宣教師館・2F1
反対側には窓付きの室内物干し場がある
旧宣教師館・2F3
畳敷きに改装された2Fの部屋
旧宣教師館・造作
左:造作家具                     右:謎の口
旧宣教師館・窓
上げ下げ窓:窓枠内部の錘により、自由な高さで留める事ができる
※錘についてはコチラ⇒【旧 第五十九銀行本店
旧宣教師館・2F廊下
左:2F廊下               右:2F階段ホール
旧宣教師館・階段
屋根裏への階段
旧宣教師館・屋根裏部屋1
屋根裏部屋
旧宣教師館・屋根裏窓
屋根裏の窓
旧宣教師館・煙突
東日本大震災で落ちた煙突
旧宣教師館5
左:階段下に見える煉瓦壁         右:玄関扉
旧宣教師館2
 現在の玄関は裏手にあるが、当初は北側道路に面していた。
間取りは、1階に居間・食堂・台所・書斎・便所・ボイラー室・パントリー。 2階は主寝室・寝室3室(教室)・浴室・リネン室。
屋根・外壁仕上げや室内は改装されている。
下ノ橋教会1
下ノ橋教会(1950竣工) 
〔所在地〕盛岡市内丸1番2号,JR盛岡駅~徒歩約15分 HP⇒下ノ橋教会
 前日、旧石井県令邸の訪問前に時間があり、町中を散策した際にこの教会を発見。
信者の御婦人方が中を案内して下さり旧宣教師館の教会と知る。
下ノ橋教会2
 かつては『盛岡基督教会』と呼ばれ、明治21年(1888)宣教師のミラー夫妻と三浦徹牧師が盛岡に着任した事により始まる。
明治28年(1895.1.12)会堂と牧師館が完成して7月に献堂式。
昭和18年(1943)下ノ橋保育園を開設。 昭和20年(1945.12.23)会堂が全焼し、集会や保育は牧師館にて行う。
昭和23年(1948 )下ノ橋保育園を廃園し、4月から善隣館で下ノ橋教会付属泉幼稚園を開園。
昭和25年(1950.12.10)現在の会堂落成式を挙行。
この地はかつて盛岡城の下ノ橋門内にあたる→「盛岡城の今昔図」盛岡市HP
下ノ橋教会3
外壁は新建材で改装済み

【2017年6月 訪問】


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2018.
04.01
Sun
建築年:明治18年(1885)頃,改築あり
構 造:木造一部2階建て
設計施工:不 詳
所在地:岩手県盛岡市清水町13-46
公 開:有 料,(4/1~11/30)10時~17時,(12/1~3/31)10時~16時, ※貸室時は見学不可の場合有り
休館日:月曜日(祝日は公開)・火曜日・年末年始(12/26~1/10)
電 話:019-604-6633
アクセス:JR岩手駅前~『下の橋町バス停』~約5分
  ※詳しくはコチラ⇒【南昌荘
南昌荘1
 鉱山経営者・瀬川安五郎の邸宅として建てられ、次々と所有者を変えながら現在はいわて生活協同組合が所有・公開しています。
各部屋は貸室としても利用され、訪問時は見る事ができない部屋もありましたが、立派な庭園がありました。
南昌荘・松鶴の間
松鶴の間(3部屋続き):金田一勝定邸の時代に増改築されたという
南昌荘・南昌の間
南昌の間 入口(中2階):進駐軍接収の時代に畳敷き→板敷きに改修
訪問時は個展が催されていた
南昌荘・香葉の間
香葉の間 (右:ボールベアリング式の金庫の蝶番)
他の屋敷では、金庫のある部屋は夫人やしゅうとが金庫番となり、居間や寝室としている事が多い。
南昌荘・その他
左:孔雀の間             右:家族用玄関
南昌荘・2F
2F座敷 (通常非公開)
南昌荘・2F襖
2F座敷の襖 (通常非公開)
左:いつの時代か不明の落書きが      右:襖は芭蕉布と思われる
南昌荘・階段
階 段 (通常非公開)
南昌荘・朝鮮人形
朝鮮人形:2人目の家主・大矢馬太郎(盛岡市長)が朝鮮旅行で購入したもの
庶民の人形がとても愛嬌がある
南昌荘2
庭は東京から庭師を呼び寄せ造園したもので、太鼓橋は後の所有者が設置
南昌荘・庭石1
左:庭の道標である追分石(左:蓬莱橋、右:高砂松)    右:一風変わった庭石
南昌荘・池
雨上がりで池が増水していた。 もしやこれが蓬莱橋だろうか?
南昌荘・庭石2
庭石
南昌荘・茶室1
茶室「幽泉」:紅葉の時期などに公開される。 束石などが不自然なので移築したものか?
南昌荘・茶室2
茶室「幽泉」 (左:入口,  右:腰掛待合?)
南昌荘・東屋
東屋


 鉱山経営者・瀬川安五郎が、明治17年(1884)盛岡監獄の大火で餌差小路(現:肴町)の本邸を焼失し、上衆小路(現在地)に新築しました。 
施主の瀬川は天保6年(1835)盛岡の商家に生まれ、生糸商として成功したあと釜石や荒川の鉱山経営(1876~1896)に乗り出して巨万の富を築きます。 その頃には秋田にも屋敷(現:赤レンガ郷土館の前)を設け、明治14年には天皇の行在所となり、鉱山にも別邸がありました。
また、盛岡の餌差小路にあった焼失前の本邸は、明治9年(1876年)天皇巡幸に同行した右大臣(岩倉具視)の宿舎となっています。
しかし明治40年の恐慌でこの屋敷を手放す事になり、明治44年(1911)他界。
 その後、大矢馬太郎(盛岡市長)別邸になると園遊会が催され、伊藤博文や李垠皇太子が訪れ、明治43年(1910)実業家・金田一勝定(盛岡銀行頭取、岩手軽便鉄道・盛岡電灯の社長)の自邸になってから増改築が行われました。
 大正9年に金田一勝定が他界した後は長男・直太郎の所有となり、その後に嫡子の金田一国士(長女の夫)へ譲渡されます。 
そして蔵の部材が花巻温泉へ移されたようです。(現:カフェ・ド・蔵か?)
 昭和14年からは盛岡の呉服商・赤澤多兵衛別邸となり、書家・新渡戸仙岳が「南昌荘」と命名。
戦後の進駐軍接収を経て、赤澤家に返還され2代目・多兵衛の自宅に。 昭和62年(1987)から盛岡市民生協(現:いわて生協)の所有となりました。
南昌荘3
【参考文献】
「岩手県近代和風建築」 岩手県教育委員会 2007
「庭園物語」 岩手日報社 1954

【2017年6月 訪問】


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