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2018.
08.19
Sun
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町追分607
店 舗:4月下旬~11月初の11~17時(GW/夏季を除く火・水は定休日)
宿 泊:4月下旬~10月末の木曜~日曜日(GW・夏季は月~水OK)大人のみ
TEL:0267-31-6511
アクセス:中軽井沢/信濃追分駅前~軽井沢町内循環バス「追分昇進橋」バス停~約200m
 
     ※詳しくはコチラ⇒【油やプロジェクト
旧 油屋
 小雨降る中仙道追分宿を歩き、堀辰雄文学記念館や追分宿郷土館を見学。 途中、古本屋に立ち寄り、最終チェックINの17:00間際に宿へ着く。
かつて『油屋』という旅館であった建物の1階にはギャラリーやShopがあり、もっと早くに到着すれば良かったと悔やみながら足早に見学。
この2階が素泊りの宿『油やSTAY』になっている。 テレビの無い部屋で、膝を掛布団に包み、建築の古本を開く。
暫らくするとお腹が空いてきたが、近くの蕎麦屋は夜の営業はしておらず、コンビニも無い。 車がないため途方に暮れる…
その様な宿泊客のために無人販売のカップラーメンやドリンクがちゃんと用意してあった。 
※近くに夜営業の飲食店やコンビニも出来たそうです(追記ご覧ください)
油や・1Fホール
 受付にあった地元産プルーンを買い求めようと下階に降りた際、支配人に話を伺う事が出来た。
この建物は『油やプロジェクト』が保存再生し、運営管理する『追分コロニー』は先程立ち寄った古本屋との事であった。
静かなその夜は、女性芸術家、観光ではなさそうな男性、コンサート帰りの演奏家らが泊まっていた。
夕食を持ち込み、古書を買い求め、夜を過ごす客人も多いのだろう。
但しシャワーしか無く、冬場はとても寒くなるので休業するとの事であった。
油や・玄関
玄 関 (一部に丸子にあった商家の古材が使われている)
油や・追分喫茶室
追分喫茶室(旧 応接間)
油や・ルーサイトギャラリー
以前ご紹介した東京・柳橋のルーサイトギャラリーの支店もあった
油や・古書
昭和レトロな雑誌も
油や・1F回廊
1F回廊:その他に中古レコード店やタイル屋がある
油や・スペース710
スペース710(旧 厨房)
油や・水廻り
左:スペース710でのワークショップ       右:浴場跡?もShopに
油や・2F
左:2F廊下                 右:客室ドアの彫刻
油や・客室1
客 室
油屋・浴衣
浴衣は旧油屋の物
油や・洗面所
男女別のトイレ・洗面・シャワー室があり安心 
油や・備品
コインランドリーも完備
油屋・資料室
資料室:右手にちらりと見える写真は立原道造
詩人として有名な立原道造(1914-1939)は建築家であり、東京帝国大学の建築学科を卒業後、石本喜久治建築事務所に務め、海軍家族病院や横浜日吉の秋元邸を担当した。
一高時代から堀辰雄の師事を受けており、文壇でも活躍。 毎夏、訪れるほど信濃追分を気に入り油屋を定宿としていたが、昭和12年の火災で逃げ遅れ、切った格子窓から助け出されたという。 病気により僅か24歳で早世した。


 玉石を載せた小板葺き屋根が連なる江戸時代の追分宿は、食売女(遊女)を抱える旅籠が数多くあり、その中でも脇本陣であった油屋(小川助右衛門)は一二を争う大旅籠屋であった。
通りに面した2階建て出桁造りの持ち送りには彫刻が施され、軒下は土足で入れる板敷きとなっており、右手にお武家様を迎える門(ある寺へ移築)を構えた、主屋・離れ座敷・土蔵からなる広大な屋敷であった。
主屋の1階には巾4間の大きな神棚があり、脇には台所や大貯水槽を備え、2階に小さな寝間が数多くあったという。
位の高い武士は門から入って式台に上がり、1階にある上段の間に通されたようだが、そこには地下室があり大名が泊まる時は家来が検査して錠に封印していたとの事。
 明治5年の芸娼妓解放令以降は旅館となり、堀辰雄・立原道造といった文士らが訪れる静かな宿となっていたが、昭和12年11月に隣家の出火で類焼し、その後 現在地(道路を挟んで反対側)へ移転し再建されたが、棟札には上棟が昭和38年となっており増築したようである。
※この棟札は解体された別館の物との事(追記ご覧ください)
旅館閉業を経て解体の危機が訪れたが、平成24年に「油やプロジェクト」が開始され、修復・改装し再生している。
この活動を始めた追分コロニーは隣にあり、再建(2006)された旅籠『柳屋』を借りて古本屋を営業するご夫婦。
油屋の保存を目指し、出資者を募って取得する事ができたが、土地建物の維持と活用経費(公共料金等)は毎年掛かるという。
油屋・古写真
油屋の古写真と平面図(展示パネルより)
油や・看板
看 板
油屋・棟札
棟札 (施工は小諸の大建組) ※解体された別館の物 

【参考文献】
「食売女」岩井伝重 著 1968
「東海道宿駅と其の本陣の研究」大熊喜邦 著 1942 丸善

【2017年9月 訪問】

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2018.
08.05
Sun
建築年:昭和47年(1972)
構造:SRC造一部S造、11F及び13F+BF
設 計:黒川紀章建築・都市設計事務所
所在地:東京都中央区銀座8-16-10
見 学:予約制・有料    ※詳しくはコチラ⇒【中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト
中銀カプセルタワービル
 建て主『中銀』は(ちゅうぎん)ではなく(なかぎん)と呼びます。 銀座を中心に貸ビル事業を展開し、現在は中銀グループとして介護付有料老人ホーム等も運営、介護事業にも携わっています。 ※詳しくはコチラ⇒【中銀グループ
創業者の渡辺酉蔵(とりぞう)は昭和46年に中高齢者専用マンション完成させ、翌年にこの中銀カプセルタワーと、先見的な発想の持ち主であったようです。
万博のタカラビューティリオン(カプセル住宅)を観て黒川紀章に設計を依頼。 反対した社員達に「個人財産を投げ打ってでも行う」と説き伏せて建設を実施、1971年3月着工、翌年4月に竣工。
ビジネス用セカンドハウスとして380~486万円で140戸分譲したカプセルは即完売したとの事。
仕様は3グレード有り、TV・時計・冷蔵庫は標準装備で、オーディオセット・空気清浄機・流し台はオプション。 カラーは白・青・オレンジ・黒からセレクト出来たようです。 当時の管理費13900円には事務サービスやシーツ類の交換も含まれていて、ホテル的な機能も備えていました。
中銀カプセルタワービル・玄関
玄関脇にあるコンビニの箇所は当初、食事サロンになっていた
中銀カプセルタワービル・外部1
左:通用口の丸窓            右:床も丸タイル貼
中銀カプセルタワービル・廊下
このオレンジを内装色に採用した部屋はあったのだろうか(丸窓は各戸の電気メーター)
中銀カプセルタワービル・ブリッジ
2棟を繋ぐブリッジ部分:近くの窓には目隠しつばが取り付けられている
中銀カプセルタワービル・配管
ブリッジの天井裏に隠された配管はプレハブ化され、点検補修用に各戸の床一部が開くという
中銀カプセルタワービル・外部2
最下部は配管がむき出し
中銀カプセルタワービル・外部3
カプセルの最上部:クレーンで吊り上げるための金具が残る
カプセル名「BC-25(中銀ビジネスカプセル)」は海用コンテナをベースに製作
滋賀の工場→神奈川の仮置場→早朝に運び入れて徐々に積み上げていった
140戸のカプセルは入口と窓の位置が、縦/横/左/右の8種類あり、大丸装工部が製作
中銀カプセルタワービル・A904
A904号室は良い状態で現存
当初の床はスーパーデラックスがジュータン敷き、その他はPPフェルト貼であった
中銀カプセルタワービル・ユニットバス1
ユニットバス
中銀カプセルタワービル・ユニットバス2
便器と水栓類
中銀カプセルタワービル・備品
オプションのオーデオセット(TVは標準装備)
中銀カプセルタワービル・机
壁に収納できるデスク
中銀カプセルタワービル・窓
スチール製の二重丸窓は内側のみ開閉可能で、円形状のブラインドが嵌る
中銀カプセルタワービル・照明
照明と煙感知器は当初の物


 福島出身の渡辺酉蔵(1921-1991)は鉄道員になるも、中央大学卒業を経て弁護士に。
東京の王子で洋裁学園や英語学校も経営しつつ運営は妻・幸子に任せ、昭和28年に順天高等学校も継承しています。
新校舎建設資金を稼ぐため貸しビル業を始めますが、建設したブロック造3階建の建物が地盤沈下を起こし、順天高等学校の経営を諦める事に。
貸しビル業が軌道に乗ると再び順天高等学校を継承。一方で東京ドレスメーカー女学院となっていた洋裁学園は順天デザイン専門学校となりましたが昭和58年に廃校。 その一部は順天学園に受け継がれています。
晩年は宗教法人・平和の礎を継承し、熱海に4階建て納骨堂マンシオンを計画しますが、7mの敬老観音(制作:堤直美)だけが完成しています。

【参考文献】
新建築47(6)「中銀カプセルタワービル」新建築社 1972
都市開発10(110) 「反響呼ぶ中銀カプセルマンション」 都市開発研究会 1972
「空を買った男 : 渡辺酉藏伝」渡辺孝蔵 著 1992

【2017年8月 訪問】


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