FC2ブログ
2019.
09.29
Sun
会期:2019年9月17日(火)〜 30(月) 11:00〜18:30(無休・入場無料)
会場:ストライプハウスギャラリー1階~地階
 (東京都港区六本木5-10-33,TEL:03-3405-8018)

ストライプハウスギャラリー3
 六本木にあるストライプハウスギャラリー。 写真家・塚原琢哉氏が設立した旧(1981~2000)ストライプハウス美術館であり、2019年9月30日(月)まで人形作家の井桁裕子(イゲタ ヒロコ)個展「2004-2019」を開催。
ライフワークとして続けてきた肖像人形の他、2014年から始めた陶人形も展示。(作品に触れる事は不可・一部の作品は撮影不可)
ゲージツ家KUMA(篠原勝之)さんをモデルにした制作途中の作品も発表されています。 ※詳しくはコチラ⇒【井桁裕子HP
ストライプハウスギャラリー2
Bフロア(地階)の様子
ストライプハウスギャラリー4
階段とBフロア(地階)床はコルク貼り、1階は石の床
コルクは柔らかく水に強いため、お年寄り・子供・ペットのいる家庭に適した床材
短所としては原料が高価で施工が難しく、数年毎にワックスを掛け直す必要がある
井桁裕子5
加速する私たち(舞踏家・高橋理通子の肖像)2012 桐塑・石塑・油彩
井桁裕子4
枡片山の鬼(舞踏家・吉本大輔の肖像)2017 桐塑・石塑・獣毛・油彩
井桁裕子6
あまつみつかいの声もかくやと 2005 石塑
井桁裕子1
ウラノス・ロータス・ウラニウム(ゲージツ家・篠原勝之の肖像)
井桁裕子2
完成した作品には蓮の花が咲くという
井桁裕子7
Doll of battle ruins 2005 桐塑 
井桁裕子8
核の海 2018 陶器
昭和29年(1954.3.1)太平洋ビキニ環礁の水爆実験で被曝した漁船.第五福竜丸とマグロをテーマにした作品
作家ご自身の手により裏印を拝見すると、側面に三日月とマグロが見えた(展示作品に触れる事は不可)
ストライプギャラリー1
ストライプハウスギャラリーは再開発が計画されている六本木5丁目西地区にあり、外資系企業と労働者を呼び込もうと超高層ビルが建設される予定地にあるため、いずれは休館する予定。
地方には人口が減って空き家・空きビルとなっている未来に残すべき建物が沢山あり、出来ればその様な場所でギャラリーを再開してほしいと個人的に願っております。
 ※ストライプハウスギャラリーについてはコチラ⇒【ギャラリーHP

【2019年9月 訪問】


スポンサーサイト



comment 0 trackback 0
2019.
09.09
Mon
建築年:明治21年(1888)竣工、改装・修復は何度かあり
設 計:山添喜三郎、  棟 梁:三島秀之助・佐藤朝吉
所在地:宮城県登米市登米町寺池桜小路6
アクセス:東日本急行.高速乗合バス『仙台駅』→『とよま明治村』下車スグ
開 館:9:00~16:30(年末年始は休館)
見学料:有料(6施設共通券有り)
TEL:0220-52-2496
 ※詳しくはコチラ⇒【教育資料館
旧登米小学校1
 昭和40年代に小学校が移転してから仮校舎として小中学校や高校が一時使用していた建物で、現在は『教育資料館』として公開。
設計者の山添喜三郎はウィーン万博.日本館の大工を務めた人物で、近くにある登米警察署も設計しています。→【旧 登米警察署
 山添は全ての木材や瓦の検品を行い、多くの不合格品を出した業者が夜逃げしたほど仕事に厳しかったと云われています。
棟札にある2名の棟梁のうち、三島秀之助は気仙沼今泉村出身で、佐藤朝吉は登米生まれ(1852)の地元の大工でした。
川に近い地盤のため基礎工事は地中まで木杭を打ち、割栗石を敷き詰め、石灰・砂利・粘土を突き固めて礎石を乗せています。
その工事のおかげか昭和53年の宮城県沖地震では壁の亀裂や剥離、桟瓦がずれる程度。
昭和末期に行われた保存工事の調査で、束石や狭間石、正面玄関の石階段は多少の沈下が見られたものの、柱の礎石はあまり沈下がなかったとの事。
しかし東日本大震災では一部損壊となっています。
改装工事は以前にも何度か行われており、大正末期には附属棟が増築されて2F中央バルコニ-床の金属板の張り替え。
昭和30年代には外階段をコンクリートに変更して、漆喰壁がカゼインやプラスターで補修されました。
文化財としての保存修復工事は➀昭和62年(1987)~平成元年(1989)、②平成24年(2012)~平成25年(2013) の2回、実施されています。
旧登米小学校2
六方と呼ばれた生徒用玄関は建物の左右に有り、当初は男女別であった
旧登米小学校・玄関天井
六方の屋根裏
旧登米小学校・土間
土間は割栗石の上に石灰・砂利・粘土を突き固め、稲井石の上に土台をのせている
旧登米小学校5

旧登米小学校・教室1
大正時代の再現教室
旧登米小学校・教室2
昭和時代の再現教室
旧登米小学校・和室
2F裁縫室兼講堂(昭和18年頃の様子に復元)
可動式の板壁で仕切られた教室2室を昭和17~18年に床の間と畳がある教室に改装したが、昭和30年代に普通教室に戻された。
昭和末期の修復工事で板壁を外し、床・違い棚・畳を復活。
旧登米小学校・欄間
板壁で隠されていた欄間
旧登米小学校・校長室
校長室
旧登米小学校・バルコニー
2F中央バルコニ-床は当初から黒亜鉛板敷き
旧登米小学校・装飾
同じ意匠の柱頭飾り(左:登米高等尋常小学校,右:登米警察署)
旧登米小学校6
左:窓の敷居の水抜き穴,      右:傘立て
敷居の水抜き亜鉛管は紛失または破損のため昭和末期の修復工事で全て交換済
旧登米小学校4

 この小学校が明治21年に建設された後、小学校の建設に関する全国区の条例が制定されました。
これは明治23年の小学校令(勅令第215号)第19条の細則である、小学校設備準則(文部省令第2号)として明治24年4月に公布されたものですが、同年11月に改正されています。
既に明治6年には奨励する学校建築として「文部省制定小学校建設図」で凹凸+-口工の形で玄関3ヶ所、片廊下or中廊下という平面図が提唱されていました。
 さらに文部省は明治24年に小学校設備準則を決めたのですが、建設費が掛かり過ぎると反対意見が多く出たため、生徒数に対する最低床面積も無くし、9条→4条と項目を減らして改正しました。
この文部省令を基に各県が「小学校設備規則」を定め、地域の条件に合わせたようですが、その当時は資産家らの寄付により建設された学校が多く、地域によりバラツキがありました。
宮城県では『学校建築心得(明治16年)』にて、四間×五間の長方形で生徒30人迄の教室を推進していました。
 登米高等尋常小学校は当時の理想とする学校建築であったようで、明治20年に文部省視学官の中川元が訪問した記録があり、森文部大臣の東北巡視先として推薦したようです。
当時の奥州日日新聞によると、小学校は10月末か11月初旬に完成で、建築中の登米警察署と合同落成式を行う予定でしたが、文部大臣が来るとの事で10月9日に急きょ落成式が行われました。
しかし暴風雨のため文部大臣は登米まで来れなかったとあり、午後2時に始まった落成式で山添が落成報告書を朗読し、蒔き餅や男子高等生の柔軟体操が行われた後、2階で招待客に日本料理が饗応されたと書かれています。
旧登米小学校3
【参考文献】
「重要文化財 旧登米高等尋常小学校校舎保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会 1990
「登米郡史.上」登米郡1923

【2018年7月 訪問】
comment 0 trackback 0
back-to-top