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2019.
10.01
Tue
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉2112
見 学:企画展開催中に1階を公開 9:00 ~17:00 (入館16:30まで)
TEL:0267-42-6334(歴史民俗資料館)
 
雨宮邸新座敷
 鉄道王であり「天下の雨敬」と呼ばれた雨宮敬次郎の軽井沢別邸です。
軽井沢を開拓するため事務所兼別邸を建設し、後にこの新座敷が建てられました。
妻・信子による内助の功でこの地を開拓し、裏山にはその妻の銅像跡と夫妻の墓がひっそりと残っています。
雨宮邸新座敷・1F2
室内一部は改装済みで稲垣黄鶴の企画展開催中であった(撮影許可済) ※2019年度の企画展⇒【稲垣黄鶴 書の世界
雨宮邸新座敷・1F1
1階座敷
雨宮邸新座敷・1F3
左:1階座敷の張付け壁の跡(和紙を押さえるため隅に押縁が付く)
右:付書院の欄間
雨宮邸新座敷・1F天井2
照明上の天井通気口(上:1階座敷、下:次の間)
雨宮邸新座敷・1F天井
床の間の格天井(上:座敷と床の間、下:脇床)
雨宮邸新座敷・家具1
火鉢と軽井沢彫りの座卓
雨宮邸新座敷・家具2
座卓の裏を見ると軽井沢彫の家具と同様にL型金物で留めてある
雨宮邸新座敷・1F天井3
廊下も質の良い天井板を使用(広縁の曲がり角の天井)
雨宮邸新座敷・階段1
和洋折衷の階段
雨宮邸新座敷・階段2
2階は通常非公開だが今回は特別に許可をいただき拝見した
雨宮邸新座敷・2F1
2階の座敷(通常非公開)
雨宮邸新座敷・2F4
上:脇床の地板、 中:欄間、 下:付書院の欄間 (通常非公開)
雨宮邸新座敷・2F2
襖に黄鶴の書あり(通常非公開) 雨宮敬次郎夫妻の死後に書かれた物のようだ
雨宮邸新座敷・2F3
書家・稲垣黄鶴(本名:稲垣はま)
 明治36年に追分宿の三浦屋の娘として誕生。 1歳の時に上田城主の右筆を務めた湯浅家の養女となり、小学校4年生で大正天皇の前で揮毫。
女学校時代に岩田鶴皐に師事して雅号・黄鶴を受ける。
東京女子師範学校・北京日本高等女学校で教職に就き、戦後に帰国すると『離燕の情』を書道展に出品し、引揚げ孤児義援金のため揮毫を続ける。
貞明皇太后からの御言葉と和歌を受けて『離燕の情』を献納。
昭和40年から信濃追分で夏を過ごし、平成18年に103歳で他界。(展示解説より)
追分公民館
黄鶴の書を基に作られた追分公民館の看板 ⇒【追分宿】 (追分宿郷土館の玄関看板も手掛けた)
雨宮邸新座敷・2F
2階のこの部屋は寝室か?(通常非公開)
雨宮邸新座敷3
隣りにある蔵座敷(通常非公開) 
職員の話によると戦時中の軽井沢は重要品の疎開先となり、雨宮家別邸でも皇室関連の書類を保管していたという。
雨宮邸新座敷2

 東京の飯田町3丁目にあった本邸では、430坪ある敷地に登山できる人造富士を造り、明治39年(1906.10.22)盛大な還暦祝いを行っています。
その当時の新聞によると、建造中の足場は丸太15000本,高さ55尺あり、五合目以上の模型はこけら葺に水色・浅葱色・白の木綿をかけて、神田方面を甲州口,麹町方面を須走口とし、内部は和洋折衷。
2千余名が招待された園遊会は13時から始まり、狂言や太神楽などが行われ、松尾臣善の主唱で皆が万歳したという事です。
 その本邸の主屋は17室で殆どの部屋が10帖以上あり、2間続きの応接間が一番広く、その隣室の床の間には2尺程の銀の馬が飾られ、さらに進むと3×4尺の欅机が置かれた主人の居間10帖があり、その後ろは数年前に他界した信子の居間10帖。
亡き妻と婿養子・亘の12帖間を除いて邸内の飾り物は銀の馬だけで、そこで雨敬と娘夫妻に孫4名+雇人16名ほど暮らしていたようです。
他に洋館15帖2室と茶室6帖がありましたが「あまり美しからず西洋間に擬したるそれも椅子は粗末にて畳も絨毯も甚だ汚き方である」と書かれています。

 雨宮敬次郎は弘化3年(1846)甲州.牛奥村に生まれ、江戸や京浜への行商から始まり、横浜の金子屋で相場を覚えて以来、洋銀や生糸相場で成功と失敗を繰り返します。
生糸種紙問屋・石油取引・製粉工場などの他、晩年は鉄道経営に乗り出して甲武鉄道・川越鉄道・山梨鉄道・東京市街鉄道・京浜電気鉄道、江ノ島電気鉄道・大日本軌道と多くの鉄道を開通させました。
また東京.路面電車の三銭均一制を実施し、桂川水力発電所(山梨)・北海道炭礦汽船・雨宮鉄工所などの経営にも携わりました。
 私生活での雨敬は、信州屋の未亡人・信子と結婚し、一人娘てる子が誕生。 明治15年頃から肺病を患いながらも大元気でした。
信子は良妻として知られ、貧乏な時代は下宿屋と内職で家計を支え、家が焼けても火事見舞いの食糧を喜び、雨敬が遅く帰っても愛想良く迎えたといいます。
 軽井沢の開墾では葡萄栽培・牧畜・養蚕も上手くいかず、馬付きの家を建てても開拓者は少し金が出来ると出て行き、金の無い者は馬を売って夜逃げという状態になり、信子が出向いて病人や老人を慰めると人々は次第に落ち着いたとの事。
信子はその後も毎年 数十日滞在し、水害の時は婿らを引き連れて水の中を歩み、被害者を慰問したと云われています。
 その信子は明治36年に亡くなり、遺言であった石碑の代わりに雨敬は軽井沢に妻の銅像を建てますが、戦時中に金属接収されてしまい現在は台座だけとなっています。
 その後、肺病がひどくなった雨敬は明治42年から片瀬の別荘で静養に入り、熱海. 桜ヶ丘の別荘へ移動。
明治44年(1911.1.20)家族に見守られながら熱海の別荘で他界しました。

【参考文献】
東京朝日新聞 1906/10/15・10/23,1911/1/22
時事評論25「雨宮敬次郎の平生」1907
東京エコー1「傑物雨敬は如何に生活する?」有楽社 1908
実業の世界8「雨宮敬次郎氏の臨終」1911
良妻物語内助の力「雨敬曰く可愛き奴であった」平間力之助 著 1918

【2018年10月 訪問】

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