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2018.
04.01
Sun
建築年:明治18年(1885)頃,改築あり
構 造:木造一部2階建て
設計施工:不 詳
所在地:岩手県盛岡市清水町13-46
公 開:有 料,(4/1~11/30)10時~17時,(12/1~3/31)10時~16時, ※貸室時は見学不可の場合有り
休館日:月曜日(祝日は公開)・火曜日・年末年始(12/26~1/10)
電 話:019-604-6633
アクセス:JR岩手駅前~『下の橋町バス停』~約5分
  ※詳しくはコチラ⇒【南昌荘
南昌荘1
 鉱山経営者・瀬川安五郎の邸宅として建てられ、次々と所有者を変えながら現在はいわて生活協同組合が所有・公開しています。
各部屋は貸室としても利用され、訪問時は見る事ができない部屋もありましたが、立派な庭園がありました。
南昌荘・松鶴の間
松鶴の間(3部屋続き):金田一勝定邸の時代に増改築されたという
南昌荘・南昌の間
南昌の間 入口(中2階):進駐軍接収の時代に畳敷き→板敷きに改修
訪問時は個展が催されていた
南昌荘・香葉の間
香葉の間 (右:ボールベアリング式の金庫の蝶番)
他の屋敷では、金庫のある部屋は夫人やしゅうとが金庫番となり、居間や寝室としている事が多い。
南昌荘・その他
左:孔雀の間             右:家族用玄関
南昌荘・2F
2F座敷 (通常非公開)
南昌荘・2F襖
2F座敷の襖 (通常非公開)
左:いつの時代か不明の落書きが      右:襖は芭蕉布と思われる
南昌荘・階段
階 段 (通常非公開)
南昌荘・朝鮮人形
朝鮮人形:2人目の家主・大矢馬太郎(盛岡市長)が朝鮮旅行で購入したもの
庶民の人形がとても愛嬌がある
南昌荘2
庭は東京から庭師を呼び寄せ造園したもので、太鼓橋は後の所有者が設置
南昌荘・庭石1
左:庭の道標である追分石(左:蓬莱橋、右:高砂松)    右:一風変わった庭石
南昌荘・池
雨上がりで池が増水していた。 もしやこれが蓬莱橋だろうか?
南昌荘・庭石2
庭石
南昌荘・茶室1
茶室「幽泉」:紅葉の時期などに公開される。 束石などが不自然なので移築したものか?
南昌荘・茶室2
茶室「幽泉」 (左:入口,  右:腰掛待合?)
南昌荘・東屋
東屋


 鉱山経営者・瀬川安五郎が、明治17年(1884)盛岡監獄の大火で餌差小路(現:肴町)の本邸を焼失し、上衆小路(現在地)に新築しました。 
施主の瀬川は天保6年(1835)盛岡の商家に生まれ、生糸商として成功したあと釜石や荒川の鉱山経営(1876~1896)に乗り出して巨万の富を築きます。 その頃には秋田にも屋敷(現:赤レンガ郷土館の前)を設け、明治14年には天皇の行在所となり、鉱山にも別邸がありました。
また、盛岡の餌差小路にあった焼失前の本邸は、明治9年(1876年)天皇巡幸に同行した右大臣(岩倉具視)の宿舎となっています。
しかし明治40年の恐慌でこの屋敷を手放す事になり、明治44年(1911)他界。
 その後、大矢馬太郎(盛岡市長)別邸になると園遊会が催され、伊藤博文や李垠皇太子が訪れ、明治43年(1910)実業家・金田一勝定(盛岡銀行頭取、岩手軽便鉄道・盛岡電灯の社長)の自邸になってから増改築が行われました。
 大正9年に金田一勝定が他界した後は長男・直太郎の所有となり、その後に嫡子の金田一国士(長女の夫)へ譲渡されます。 
そして蔵の部材が花巻温泉へ移されたようです。(現:カフェ・ド・蔵か?)
 昭和14年からは盛岡の呉服商・赤澤多兵衛別邸となり、書家・新渡戸仙岳が「南昌荘」と命名。
戦後の進駐軍接収を経て、赤澤家に返還され2代目・多兵衛の自宅に。 昭和62年(1987)から盛岡市民生協(現:いわて生協)の所有となりました。
南昌荘3
【参考文献】
「岩手県近代和風建築」 岩手県教育委員会 2007
「庭園物語」 岩手日報社 1954

【2017年6月 訪問】

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